2011年9月23日金曜日

旧石器時代の衣と食を考える

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《旧石器時代の衣と食を考える

 旧石器時代の衣・食・住の特色を、

 具体的に復元できるほどの証拠(遺物)はいまのところにとんど発見されていない。

 だから、「よくわからない」というのが正直なところだが、

 たとえば当時の衣服については、

 いまも極北の地帯に住む狩猟民たちの衣服が復元の参考になる。

 大興安嶺のオロチョンはじめ、

 アラスカのエスキモーや東部シべリアに住むニヴヒ(ギリヤーク族)や

 チュクチなどではノロジカやへラジカ、カリブー(トナカイの一種)や

 アザラシなどのも皮でつくっただぶだぶの防寒服が昔から用いられてきた。

 たとえばエスキモーでは、カリブーの毛皮を主婦が歯で噛んでなめし、

 カリブーの腱からつくった糸を使って伝統的な衣服をつくってきた。

 それには毛を内側にして仕立てたアディギと毛を外側にしたアノガジェの二種類がある。

 本多勝一氏はその調査記録の『極限の民族』の中で、

 「普通は下着もつけずアディギだけを着るが

  (厳寒期と旅行のときなどにはその上にアノガジェを着る)、

  厚い毛皮一枚がフワリと体をおおうだけだから空気の層ができ、

  羽根ぶとんにくるまれたようで温かい」と述べている。

 温かい空気は毛皮製のフードで上の方へ逃げるのを防ぎ、

 ズボンも手袋もカリブーの毛皮でつくる。

 靴は幾重にも毛皮を重ねたものを用いている。

 ところが、従来は旧石器時代の生活を想像した図などには、

 当時の人を半裸か、袖の短い衣服を着て、はだしに描いているものが多い。

 だが、いまから約二万年前のヴユルム氷期最盛期には、

 前にも述べたようん、気温はいまよりも七度ほども低かったとされている。

 真夏の一時期を除くと、氷河時代の厳しい自然の中で生活するためには、

 現代のオロチョンやエスキモーやニヴヒの人たち(写真18 参照)と

 同じようなだぶだぶの長い防寒衣服が必要である。

 それをオオツノジカブーツやへラジカその他の毛皮でつくり、

 ズボンや靴には、ナウマンゾウや野牛、ヒグマなどの毛皮も利用したと考えられる。

 後代のアイヌの衣服も、材料は少し異なるが、やはりだぶだぶの防寒衣であった。

 次に、当時の人のおもな食料は、

 花泉遺跡や野尻湖遺跡のキル・サイトの例によってもわかるように、

 大型獣を中心に中小型獣も含め、その肉と血や内臓や脂肪などであったことはいうまでもない。

 それらの一部は焼き肉や燻製や干し肉にして移動の際の携帯食料にすることもあっただろう

 (78 ページ・写真32 参照)。

 このほか、植物性食料も可能な限り利用していたに違いない。

 アク(毒)抜きの技法は、縄文時代になって完成するものなので、

 当時はアク抜きを必要としない植物が食料の対象となっていたと思われる。

 東北日本の亜寒帯針葉樹林帯やその周辺では

 コケモモ・クロマメノキなどの奨果類やハイマツ・チョウセンゴヨウの実などが、

 西日本の落葉広葉樹林帯や広葉樹と針葉樹との混合林帯では

 チョウセンゴヨウ・ハシバミをはじめ、

 クルミ・クリ・ヒシなどの堅果類やヤマブドウ・サルナシ・キイチゴなどの奨果類、

 ウバユリなどの根茎類が食料として利用されていたと思われる。

 なかでも、その当時、

 本州から北九州にかけてひろく分布していた
 
 チョウセンゴヨウの実は小型のピーナッツほどもあり、

 栄養価も高く、食料として重要性が大きかったと鈴木忠司氏は推定している。

 私もその意見には賛成である。

 北アメリカの大盆地に住むショショニ族

 アンテロープ(ウシ科)やウサギ、イナゴなどを狩猟するほか、

 なかでものサンヨウマツ実が主食料の一つになっている。

 彼らは秋から冬にかけてマツの実が収穫できる範囲に

 二〇~三〇家族が集まって野営する。

 浅い龍の中へ真っ赤なおき火(たき火の残り)と一緒に入れ、

 よく振り動かして妙った後、平たい石の上ですりつぶして粉にし 、

 そのまま食べたり、革袋に入れて蓄えるという。

 また、細かく編んだ龍の内側に松脂などを塗って水を入れ、

 そこへたき火で真っ赤に焼いた石を投げ人れて水を沸騰させ、

 マツの実の粉をねってペースト状にしたものをその中に入れて調理する方法もひろくみられる。

 龍編みの技法は土器製作以前の新大陸西部の原住民のあいだに異常に発達した技術で、

 日本列島の旧石器時代にも、それがひろく存在したとすぐには考えられない。

 むしろ、北アメリカ北西部や北東アジアの亜寒帯林地帯の原住民のあいだには、

 各種の木器類とともにカバノキなどの樹皮を使った

 樹皮製容器が古くから用いられていたことに私は注目したい。

 写真19はアムール川下流域のニヴヒ(ギリャーク族)の樹皮製容器の一例だが、

 樹脂で目張りしたこの種の容器に水を入れ、焼石を投げ入れて沸騰させるほか、

 ニヴヒでは、かつては木器ゃ樹皮製容器に泥を塗りつけて、

 火にかけて鍋のように用いていたという。

 おそらく氷河時代の日本列島でも、

 ニヴヒのそれとよく似た木器や樹皮製容器がひろく用いられていたものと私は考えている。

 野川遺跡をはじめ、ナイフ形石器の時期の遺跡では礫群や配石(置石)とよばれる

 自然石のまとまりが発見されることが少なくない。

 さきに示した図9にも磯群の存在が示されている。

 礫群というのは拳大の焼けた石が数十~一○○個ほど一カ所にまとまったもの。

 配石は子供の頭ほどの石が一~数個据え置かれたもので、

 礫群と異なり焼けた痕跡はない。

 礫群の自然石は六○○度以上の熱をうけた痕跡が明らかで、

 一般にそれは加熱調理施設、配石は調理作業場と考えられている。

 礫群の焼石の中には、黒いタール状の物質が付着しているものがあり、

 中野益男氏がそれを脂肪酸分析した結果によると、

 動物性食品の調理のあとを示すステロールが検出されたという。

 焼石は獣肉などを直接焼くのに用いられたことは確かである。

 しかし、前述の民族例にみられるように、

 焼石はマツの実やその他の木の実類を妙ったり、野生のイモ類を蒸し焼きにしたり、

 あるいは水を入れた木器や樹皮製容器の中へ投げ入れ、

 ものを煮沸するのに用いた可能性が高い。

 獣脂をこのような仕方で煮つめて、

 良質の油脂をとることも行われていたのではないかと私は想像している。

 いずれにしても、ヴユルム氷期の最寒冷期を、

 さまざまな生活技術を開発し、

 生活の知恵を活用して旧石器時代の人たちは生き抜いてきたのである。

 「写真17」へラジカの皮をなめす

  大興安嶺に住むエヴェンキの人たちはトナカイの牧畜のかたわら狩猟も行う。

  獲物のハンダハン(ヘラジカ)の皮は日に乾したあと、皮についた脂肪を削りとり、

  よくもんで柔らかい皮になめす。

  皮なめしは女の仕事である。

  大塚和義氏提供。

 「写真18」オロチョンの伝統的な皮製衣服

  中国東北部に住むオロチョンの人たちは、

  いまも狩猟生活を営み、おもにノロジカやヘラジカの毛皮をなめした。

  だぶだぶの長い皮衣を着ている。

  大塚和義氏提供。

 「写真19」ニヴヒの樹皮製容器

  大正8年に鳥居龍蔵博士が東部シべリアのニヴヒ(ギリヤーク族)の村で収集したもの。

  国立民族学博物館。

 「写真20」チョウセンゴヨウ

  左に示した実のうち上の2個は野川遺跡から出土したもの。

  チョウセンゴヨウは、かつては本州から北九州にひろく分布していた。

  現在は福島県から岐阜県の山地に自生。

  大沢進氏提供。

 「写真21」礫群

  茶色く焼けた焼石のまとまり。鈴木遺跡出土

  焼石は、直接獣肉を焼いたり、容器の中へ投げ入れて水を沸かしたり、

  大きな葉にくるんだ野生のイモ類などとともに土中に埋めて、

  蒸し焼きにしたり、さまざまな加熱調理に用いられた。

  小平市教育委員会。

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 『参考ブログ』

 「歴史徒然」
 「ウワイト(倭人)ウバイド」
 「ネット歴史塾」
 「古代史の画像」
 「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
 「オリエント歴史回廊(遷都)」
 「歴史学講座『創世』うらわ塾」
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

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