出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:16~17頁
はじめに
『日本史誕生』を考える―現在と過去、アジアと日本―
《基層文化の発見》
「握り鰭の原型は鮓(ナレズシ)」
スキヤキ、テンプラ、スシ。
もう少し上等になって会席料理。
これらは誰が考えても「日本的」料理を代表するものであり、
外国人に日本的情緒を味わってもらうために、
この種の料理を食べに行くことが少なくない。
ところが、スキヤキがさかんになったのは牛肉屋ができた明治以後のこと、
テンプラも、会席料理も、
いまのような形になったのは江戸時代の中期以後の新しいものである。
スシについても、「江戸前の握り鮨」といわれるように、酢を混ぜた飯を握って、
その上に生の魚をのせた鮨をさかんに食べるようになったのは
江戸時代も後期のころからだといわれている。
「日本的」な料理の形ができるのは、やはりきわめて新しいことなのである。
しかし、米を炊いたり、蒸したりして食べるという日本の主食調理法の基本になる特色は、
縄文時代晩期あるいは弥生時代の初期に、
日本列島へ稲作が伝来し、それが展開したとき、すでに形成されていたものである。
米食の伝統は、それ以来、二○○○年にわたって伝承されてきた。
さらに、スシについてみても、握り鮨の歴史は新しいが、
スシそのものの歴史はけっして新しいものではない。
スシのもっとも古い形はナレズシとよばれるもので、
魚を開いて軽く塩をしたのち、炊いたり、蒸したりした米の上に置き、
魚肉(獣肉でもよい)と米とを桶や甕の中に交互に積み重ね、漬け込んだものである。
いく日かすると米が乳酸発酵するのですっばくなるが、
その乳酸菌で他の雑菌の発生が抑制されるので、
魚肉(獣肉)をかなり長期に保存できる。
このようなナレズシは、
いまもわが国では琵琶湖畔などでつくられるフナズシに、
その姿をよく留めているが、実はきわめて古い食品なのである。
たとえば中国の三世紀ごろの古い辞書の中には、
長江より南の江南の地にナレズシがひろく存在していたことが記されているし、
現在でも、湖南省、貴州省や雲南省の少数民族、
とくに苗(ミヤオ)族や侗(トン)族などのもとではナレズシが日常的につくられている。
一九八○年の秋、私も貴州省台拱県施洞区の苗族の村で
ナレズシをたくさん御馳走になったことがある。
一三世紀ごろ以後、中国人(漢族)の中では失われてしまった古い食習慣が、
少数民族の中でよく保持されてきたということができる。
いずれにしてもナレズシは大へん古い食品である。
おそらく、それは稲作農業とともに長江の下流あたりから、
九州へ伝わったものと考えられている。
現代、日本の食文化を代表するスシは、
国際化の波にのってアメリカやヨーロッパに輸出され、
人気を博しているが、
その握り鰭の伝統はせいぜい近世後期ころにまで遡りうるにすぎない。
しかし、この「日本的」 食品のもとになったナレズシの伝統はきわめて古く、
二○○○年あるいはそれ以上の長い歴史を有するわけである。
私は、ここではそのことを注目しておきたいのである。
「写真」雲南地方のナレズシ
円内はフナズシ
「写真」奈良時代の木簡
平城京跡出土
奈良文化財研究所
ナレズシは現代の鮨のもとになる古い食品である。
中国では苗(ミャオ)族などの少数民族のもとで、
日本では琵琶湖畔のフナズシなどに原形を残している。
平城京出土の木簡に記録された鮓。
「写真」トチの実加工場跡
埼玉県赤山陣屋跡遺跡
川口市遺跡調査会
縄文人の食生活の中心は木の実や野生のイモ類などの植物食である。
早くからトチやドングリを水にさらしてアク抜きする技術が発達し、
後期には、写真のような大型のアク抜き加工場も出現した。
「写真」縄文時代の復元家屋
長野県与助尾根遺跡
縄文人の住まいは竪穴住居である。
それが2~数棟集まってムラをつくり、そのムラが社会生活の単位になっていた。
写真は与助尾根の復元村。
ナラ林に囲まれた縄文のムラの雰囲気がよく伝えられている。
「写真」垂柳遺跡の水田
青森県埋蔵文化財調査センター
青森県垂柳遺跡とその周辺
弥生時代中期の最果ての水田址
不規則で小さな水田区画に初期水田の面影がょくみられる。
基盤整備を終わった現代の水田。
新旧の対照が興味深い。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
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