出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:48~50頁
第1章 日本列島の旧石器時代
3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える
《集落の構造と生活のユニット》
ところで、ナイフ形石器を中心にさまざまな石器をつくり、
それを使っていた日本列島の旧石器時代人たちは、
具体的にどのようなムラをつくって生活していたのだろうか。
ナイフ形石器の時代の後半になると、後に紹介するように、
柱穴をもつ住居址らしいものが見いだされるようになってくるが、
その数はきわめて少なく、ムラの姿を復元するまでには至っていない。
だが、日本の考古学者の最近の発掘は精細をきわめており、
石器と石器をつくったときに出る石屑の分布をすべて記録し、
それがいくつかのまとまり(ブロック)をもつことを明らかにして、
ムラの具体的な姿を描き出そうとしている(図8、図9)。
それだけではない。
各ブロックで出土した石器や石片をくわしく調べ、
同じ母岩を打ち割ってつくられた石器や石片を
すべて寄せ集めてもとの母岩を復元するという、
大へん丹念な接合作業が行われている(写真16)。
この種の調査の先駆をなしたのは、
明治大学の戸沢充則、安蒜政雄氏らが調査した
埼玉県所沢市の砂川遺跡(14C 年代で約一万三三〇〇年前ごろ)である。
この遺跡では、Al ・A2 ・A3 、Fl ・F2 ・F3 の六つのブロ?クが見いだされ、
ナイフ形石器四六、彫器二、使用痕のある剥片一四のほか、
剥片三二五、砕片三一四を含め、総計七六九点の石器と石片が発掘された。
図9 はこのうちA ブロック群の石器や石片の分布を模式的に示したものだが、
中央のA2 ブロックには炉の役割を果たしたと思われる礫石群が存在するとともに、
石器の数が多いのに対し石屑が比較的少ない。
おそらくそこには獣皮製の住居などがあり、居住の中心だったと思われる。
それに対し、Al とA3 、とくにA3 では狭い範囲に石屑が多く、
おそらくそこでは石器の製作がさかんに行われたものと推定されている。
しかも、Al 、A2 、A3 の各ブロック間には
同一の母岩から打ち欠いたと思われる石器や石片が数多く存在し、
Aブロック群内で石器をつくったり、使ったり、棄てたりしていたようで、
Aブロック群全体が一つの生活のユニットを形成していたことがわかる。
戸沢充則氏は、
「砂川遺跡の例に示されるような、
三ないし数箇所の近接したブロック群(ユニット)が
一つのイエであるとすると、
その程度の面積のイエに起居できる人数は、
おそらく一○人から一○数名であったろう。
それは「世帯」とか「家族」といえるような、
日常的な食料獲得と消費を共同で行う、
血縁的な単位集団だったとみられる」
(戸沢充則、一九八四年)と述べている。
さらに写真16は、
砂川遺跡のA3 から出土した一○数点の石器や石片を接合した資料だが、
この接合資料の場合、原石(母岩)の上、下側と外側に当たる石片が
ここでは見当たらない。
たぶん原石の上下と外側の部分をはぎとる作業を他の場所で行ったものと思われる。
また、この資料の右側の空白になっている箇所には、石核が入るべきだが、
それがこの遺跡では発見されていない。
おそらく、この場所にある期間居住していた人が、その石核をもって、
他の場所へ移動したことを示すものとみられるのである。
他にも同様の例は少なくないという。
石器の丹念な接合作業は、
旧石器時代人たちが石器をつくるための原石や石核をもって
移動生活を営んでいた事実をみごとに証明したものといえる。
富山県の野沢遺跡(年代はAT 火山灰より少し後の時代)でも、
石器ブロックの確認や石器の接合作業が丹念に行われた結果、
ここでも同時に三つの世帯ユニットがあったことが鈴木忠司氏によって復元された。
同氏によると、各ユニットごとやりの石器組成は表5 に示したとおりで、
槍のようにして使うナイフ形石器や獲物を解体したりする使用痕のある剥片は、
基本的な装備として各世帯ユニットに共通している。
それに対し、木の実や野生のイモ類の調理・加工用具だったと考えられる敵石は、
2 と3 のユニットにあって1 にはない。
鈴木氏は植物性食料を採集・調理する成年女性が2 と3 の世帯にはいたが、
1 にはいなかったと想定している。
そうともいえるが、2 と3 のユニットのみが住居と炉をもっ居住の単位(世帯)で、
1 は二つの世帯に付属した獲物の解体などを行う作業場と考えることもできるかもしれない。
いずれにせよ、石器や石片の分布やその接合関係の詳細な分析によって、
最近ではナイフ形石器時代のムラや世帯の姿が、
おぼろげながら浮かび上がってきたようである。
では、具体的に当時の衣・食・住など、生活の特色はどのようなものだったのだろうか。
「図8」寺谷遺跡における遺物の分布とブロック区分
寺谷遺跡では、ナイフ形石器のほか剥片、砕片、石核など約4600 点が出土した。
図は4600 点の遺物の分布を示したもので、そのまとまり具合から11 のブロックに区分された。
(鈴木忠司、1980 による)
「図9」砂川遺跡のAブロック群(ユニット)
図は発掘区内の石器、石片などの分布を示す。
● はナイフ形石器などの完成した石器
・は石器を作る際に飛び散った石片(石屑)
■ は石核または原石
その分布状態からA1-A3 の3 つのブロックに分けられるが、
その各ブロックの間には原石の同じ石器・石片(個体別資料)、
石が割られる前の状態に接合できるもの(接合資料)が多く共有され、
各ブロックが互いに密接な関係にあったことがわかる。
また、中央のA2には礫」群(炉)があり、
石器の数は多いが、石屑はまばらである。
おそらくこのA2 が住居の中心の場であったろう。
それに対してA1 とA3 、とくに後者は狭い範囲に石屑が密に分布し、
ここでさかんに石器製作が行われたことがわかる。
このAブロックが生活の一つのユニットをつ<っていた。
(戸沢充則、1984 による)
「写真16」石器の接合
砂川遺跡では769 点の石器と石片の接合から66 個の原石が確認された。
写真の原石は長さ約15cm 、もとは楕円形だったと思われる。
明治大学考古学博物館。
「表5」野沢遺跡におけるユニットごとの石器組成
(鈴木忠司、1984 による)
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
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