出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:14~15頁
はじめに
『日本史誕生』を考える―現在と過去、アジアと日本―
《「日本的文化」の形成》
いわゆる明治維新の変革期を境にして、
われわれは西欧文明の諸要素を大量にうけ入れた。
チョンマゲがザンギリ頭になり、着物が洋服に変わったのをはじめ、
日常生活や産業組織に大きな変化があり、
教育制度や政治制度に至るまで、西欧化が著しく進行した。
それでは滔々たる西欧化の流れの中で
伝統的な日本文化がなくなってしまったかというと、
誰もそうとは思わない。
神社信仰で代表される日本固有の宗教はその後、
ますますさかんになったし、
茶道や華道、歌舞伎や能も滅びなかった。
日本食の伝統も、座敷や床の間、障子をもつ日本家屋の伝統も、
そのまま継承されてきている。
とにかく日本語を話し、それで読み書きをし、
日本的な思考でものごとを処理してゆく習慣が変わっていないのだから、
明治以後も日本文化の基本的な部分には変化はなかったといってよい。
西欧化は日本文化の表層のみを変えたにすぎなかった。
ところで、いま、伝統的日本文化の代表のようにしてあげた神社信仰にしても、
茶道や華道、歌舞伎や能などにしても、
また日本食や日本家屋の特徴にしても、
その特色は、中世末ごろ以降、
主として近世の歴史の中でつくり出されたものが少なくない。
神社信仰については、
明治以後の国家神道の隆盛によって制度的にもよく整備されたものだが、
民俗的には中世以降の宮座の祭りなどが神社を中心にする信仰を支えてきた。
だが、さらにその背後には古代以来の古いカミ信仰が息づいているとみてよい。
茶道や華道、歌舞伎や能などにしても、その形が整えられてくるのは、
中世末から近世初頭のころであることはよく知られている。
それが民衆にまでひろく浸透するのは近世中期以降のことといわれている。
「日本的」な衣・食・住についても同様で、
着物や帯が今日みるような形になるのは元禄時代以後のこと、
住まいについても玄関、座敷、床の間、障子、縁など、
日本の家屋建築の特徴といわれるものの多くは、
中世に禅宗建築とともに伝来した書院造りに起源するものである。
それが近世になって大名や高級武士の邸宅から庶民の家へとひろがったとされている。
だが、日本の家屋建築のもう少し基本的な特色、
たとえば高床(揚げ床)も構造をもち、柱と梁で重量を支え、
土壁が両方の柱の間にぶら下がっているような
いわゆるハンギング・ウォールの構造などは、
すでに古代の民家にみられるものである。
おそらくその系譜は長江(揚子江)流域から
東アジアの照葉樹林帯の奥深いところにまで辿ることができるのである。
「写真」イノシシの土製品
青森県十腰内遺跡出土
弘前市立博物館
縄文人は弓矢でさかんに狩りをした。
おもな獲物はイノシシとシカ。
豊猟の祈願のためにイノシシの土偶もつくられた。
そのリアルな表現の中に縄文人と野獣との深いかかわりを見ることができる。
「写真」人面形把手
神奈川県公田町出土
神奈川県立博物館
少し寸づまりの幅の広い顔、細し、口、大きな鼻。
縄文土器の把手につくり出された顔は実に写実的だ。
その素朴でおおらかな表情に平和な日々がしのばれる。
肖像ではなく、カミか精霊を示したのだろう。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
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