2011年9月10日土曜日

岩宿発掘―旧石器の発見

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:22~24頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる

 《岩宿発掘―旧石器の発見

 桐生市の西南約四キロにどのところに両毛線の岩宿駅がある。

 その駅の西北にある丘の鞍部に切通しの道が走っているが、

 その道の両側には赤土の断面が露出していた。

 一般に関東ロームとよばれるこの赤土の層の中から、

 黒躍石でできた鋭い石片を一九四六(昭和二一)年以来いくつも発見し、

 それが石器ではないかと考えたのは、

 行商で生計を立てながら考古学の研究をつづけていた無名の一青年、

 相沢忠洋氏であった。

 一九四九年の夏、彼は槍の先と思われるみごとな石器を同じ地層の中から発見した。

 彼は、それらの資料をもって、

 当時はまだ新進の考古学者であった氏に出逢うのである。

 芹沢氏は後に日本の旧石器文化研究の第一人者になる人である。

 だが、そのころは、考古学者も地質学者も、

 ローム層の中から石器が出土するなどということは

 だれ一人として考えていなかった時代である。

 したがって、相沢青年の持参した一見して旧石器とわかる資料を見せられた

 芹沢氏は「眼からウロコが落ちた」ような思いだったという。

 芹沢氏はさっそく、当時、明治大学の講師で登呂遺跡の発掘を指揮していた

 杉原荘介氏に連絡をとる。

 そうしてその年の九月11 日には杉原、芹沢、相沢の各氏に

 岡本勇氏を加えた四人が岩宿遺跡へおもむき、その試掘にとりかかったのである。

 当時、まだ若い学生であった岡本勇氏は、そのときの感動を次のように書き残している。

 「道路を作るために切崩された崖の両側には地層の断面がみられる。

  相沢さんによれば断面の下端のローム層から遺物が出るらしい。

  ただちに発掘が開始された。胸は高なり、腕はふるえた。

  だが意図する石片すらもなかなかでてこなかった。

  しかし、午後になってようやく相当数の石片が発見され、大いに気をよくした。

  これらは明らかに人工的である。

  何もかも忘れて発掘をつづけるわれわれは、ふと冷たいものを肌に感じた。

  「この雨がなんだ」シャベルは深くさらに深く壁の中にめりこんでいく。

  ルトウシエ(整形加工)を有し、しかも形態の判然とした石器を探したい。

  それを発見することによって、旧石器たることは何人によっても確認されるであろう。

  いつ雨が止んだかは知らたかった。時計は四時三〇分を示していた。

  「五時までやろう、あと三〇分分だ」杉原先生はいった。

  ラストへビー、緊張の度はさらにひきしまり、ふるうシャベルの音は高かった。

  突然、先生のシャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。

  (中略)取りあげた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、

  何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。

  時まさに四時五〇分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変っていた。

  今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、

  もはや何人も疑わないであろう。もう何も語ることはない。すべては喜びであった」。

 (岡本勇、一九五八年)


 「写真2」岩宿遺跡の発掘

 1949 年、切通しの土手で、わが国ではじめて旧石器時代の遺物が発掘された。

 明治大学考古学博物館

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 『参考ブログ』

 「歴史徒然」
 「ウワイト(倭人)ウバイド」
 「ネット歴史塾」
 「古代史の画像」
 「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
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