2011年9月23日金曜日

はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 最後に、当時の住居については、最近、いくつかのよい資料が報告されるようになった。

 たとえば北海道の中本遺跡長野県の駒形遺跡などでは、

 浅い堅穴状の遺構の中に炉跡などが発見されている。

 だが、ここでは一九八六(昭和六一)年に発見された大阪府のはさみ山遺跡の例によって、

 当時の住居の実態をみてみることにしよう。

 はびきの大阪の河内平野の南縁を画する羽曳野丘陵の北側に低い丘がのびている。

 その一角に、旧石器時代の住居祉が発見された。

 はさみ山遺跡とよばれるこの遺跡は、

 近鉄バファローズの名捕手だった梨田昌孝氏の住宅建設予定地に当たり、

 住居域はその南半分が発掘された。

 全体を復元してみると、東西約六メートル、南北五メートルほどの楕円形をなし、

 深さ約三〇センチほどの浅い竪穴住居だったらしい。

 一・○~一・七メートルの間隔で七個の柱穴が発掘されたが、入り口の柱らしい二本を除き、

 いずれも住居の内側にゆるく傾斜し、総計一三~一四本の柱で上屋を支えていたと思われる。

 住居内の床面には灰黄褐色の砂が厚さ一○~二○センチほど敷きつめられており、

 住居の周囲には幅五○ ンチほどの溝がめぐらされていた。

 屋内に炉跡は見つからなかったが、

 住居の西に接して長径一・五メートル、深さ一三センチにどの掘り込みがある。

 埋土の表面に熱をうけて破砕されたサヌカイト礫が出土したので、炉跡とも考えられるが、

 住居の付属施設の可能性もあるという。

 また、この遺跡からは国府型ナイフ形石器一三点、小型ナイフ形石器二点、

 翼状剥片一二点、同石核四点を含む二三八点の石器が出土したが、

 その大部分は住居址内の敷砂の上面や住居の周辺二メートルあまりの範囲に

 集中していたという。

 つまり、この住居が生活の拠点になっていたことがよくわかる。

 このような状況からみて、はさみ山遺跡の住居は、

 ヴユルム氷期最盛期ごろの典型的な住居の一つと考えられるが、

 それは溝をめぐらし、砂を敷き、かなり丹念につくられたもので、

 ひと冬をここで越冬するための住居ではなかったかと私は想像している。

 上屋を何でつくったかは不明だが、

 発掘された七個の太い柱穴のあいだに

 径一○~一八センチほどの浅い掘り込みがいくつもみとめられたので、

 補助的な多数の垂木材を用い、

 その上に草や芝土などをのせた保温性の高い住居であったと考えておくことにしよう。

 ニヴヒやアリュートなどの民族例を参考にして考えると、

 この種の土をのせた堅穴式の「冬の家」

 (ニヴヒの竪穴住居については4 章・図43 、および5 章・図118 参照)のほか、

 皮製テントや簡単な高床の「夏の家」が

 ナイフ形石器の時代にも存在した可能性が少なくない。

 さらに、このはさみ山遺跡では、住居堆の東側四メートルほどのところに、

 南北にのびる幅一○メートルほどの浅い谷があり、

 その東側に墓と思われる穴(土墳・土坑)が発見された。

 東西二・七メートル、南北一・六メートル、深さ五○センチほどの舟底形の穴で、

 その底面の東端に長さ二六センチと二一センチの

 大きなサヌカイトの石核が二つ置いてあった。

 いずれも石器をつくるための剥離作業を行っている途中の石核で、

 どちらも原石の表面を下にして置かれていたというから、いかにも作為的で副葬品らしい。

 このはさみ山遺跡では、小さな谷川をはさんで、

 西側には住居が、東側には墓地が営まれたわけである。

 さらに、この谷川に沿い、

 はさみ山遺跡の南には国府型のナイフ形石器などが多数出土したほか、

 少し後の時代の有茎尖頭器も出土した青山遺跡その他があり、

 はさみ山遺跡の北には同じようにナイフ形石器時代の石器や

 有茎尖頭器を出土した西大井遺跡その他がある。

 つまり、はさみ山遺跡の立地する丘陵とその周辺は、

 国府型ナイフ形石器が卓越する時代から有茎尖頭器の時代にかけて、

 旧石器時代人たちが、

 継続的に生活の場として利用していたことがよくわかるのである。

 その当時、この丘陵とその周辺には、チョウセンゴヨウを主とする針葉樹や

 ミズナラ、カバノキ、ハシバミなどの落葉広葉樹の混合林がひろがっていたと思われる。

 また、丘陵の西方には湿原も存在していたらしい。

 おそらくオオツノジカをはじめ、ナウマンゾウ、ニホンムカシジカなどが

 付近に数多く生息し、この一帯は彼らにとって絶好の狩場であり、

 生活の場であったと考えられる。

 さらに、石器の原石としてよく使われるサヌカイトの産地として名高い

 二上山のごく近くに位置していたことも、生活に好都合だったと思われるのである。

 大きなサヌカイトの石核とともに葬られた、はさみ山遺跡の被葬者は、

 このあたりを冬のキャンプ地にしていた村人たちの中の

 顔役の一人であったのかもしれない。

 「写真22」はさみ山遺跡はさみ山遺跡の住居址

  調査が行われたのは遺跡の南半分だけであった。

  図と対比してみると、くわしいことがわかる。

  7カ所の柱穴(凡例参照)は直径14~22cm 、それぞれ5 ~8 cm の深さをもつ。

  手前から2 番目と3 番目咽でP-5 とP-6 ) のあいだが入口だったと思われる。

  大阪府教育委員会。

 「図10」はさみ山遺跡の住居と墓地

  小さな谷をはさんで、住居祉から20m 余り離れたところに墓地(土墳)があり、

  丁重な埋葬が行われたらしい。

  (大阪府教育委員会、1986 による)

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 『参考ブログ』

 「歴史徒然」
 「ウワイト(倭人)ウバイド」
 「ネット歴史塾」
 「古代史の画像」
 「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
 「オリエント歴史回廊(遷都)」
 「歴史学講座『創世』うらわ塾」
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

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