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《参考》


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 "古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果"
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 "存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状"
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2011年9月27日火曜日

細石刃文化の地域性

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《細石刃文化の地域性

 しかし、関東地方や中部地方南部より西の西日本の地域には、

 前にも述べたように、クサビ形細石核ではなく、

 円錐形または角柱状の細石核から細石刃をつくる文化がひろく分布していた(図11)。

 そこでは、さきの矢出川遺跡の例にみられたように、ナイフ形石器を使う

 伝統がかなり後まで残っていたが、彫器(荒屋型を含め)の使用はほにとんどみられず、

 石器の組み合わせが比較的単純だという特色がみとめられる。

 また、石器のつくり方などにも、

 前代のナイフ形石器文化の伝統をうけついだと思われる点が少なくないという。

 このような事実にもとづいて、

 岡山大学の稲田孝司氏は

 「関東地方以西の旧石器時代人は、細石刃をとりつける新式槍の着想はうけいれたけれども、

  細石刃の製法や石器の種類のとり合わせは、

  自分たちの伝統にもとづいて決定したといえよう」と述べている。

 東北日本では新しい細石刃文化が古いナイフ形石器文化にとってかわったのに対し、

 西日本では古い在来の文化が新しい外来の文化をうけいれて、

 在来文化の伝統を変容せしめていったといえそうである。

 では、なぜこのような文化の地域差が生じたのか。

 その理由を解き明かすことはなかなかむずかしい。

 が、先史時代の自然環境の変化と文化の関係を追いつづけてきた

 国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、

 この点について、一つの興味ある仮説を提出している。

 それは次のようなものだ。

 約一万三○○○年前ごろ以降、日本海の海況がしだいに変化し、

 対馬暖流がそのころから間欠的に流入してくるようになる。

 すると海水温が上昇し、

 とくに冬には冷たい季節風の空気と海水との間に温度差が生じ、

 蒸発がさかんになり、雪雲ができて日本海沿岸に多雪をもたらす。

 その結果、日木海沿岸の地方では、

 氷河時代にみられた大陸的な寒冷で乾燥した気候がゆるみ、

 針葉樹の疎林や草原にかわって、ブナやナラの森林が拡大するようになる。

 これに対し、太平洋岸を中心とした関東地方より西の地方では、

 氷河時代以来の寒冷で比較的乾燥した気候がその後もつづき、

 疎林と草原が交錯する景観がみられた。

 前代のナイフ形石器文化の伝統を強く残していた西日本の細石刃文化は、

 このような後期旧石器時代の気候に近い寒冷で乾燥した環境を

 生活の舞台としていたわけである。

 それに対し、クサビ形細石核と荒屋型彫器をもち、

 ナイフ形石器をもたない東日本の細石刃文化は、

 前述のように、シべリアに文化的系譜をもつ新しく渡来した文化だが、

 それは晩氷期になって新たに出現した、湿潤で雪が多く、

 ブナやナラの森林のひろがる環境に適応したものだというのである。

 この新しい文化が、具体的にどのように新しい環境に適応したか、

 安田氏はくわしくは述べていない。

 しかし、森林地帯における漁労活動や木の実(堅果類)の採集活動などが、

 大型哺乳類の狩猟にかわって、

 生業の中心になったことが重要ではないかと指摘している。

 この視点は大へん重要なポイントである。

 約一万三○○〇年前ごろの晩氷期以後、著しく変化してきた自然環境の中で、

 人々の生活様式もそれに応じて大きく変化したはずである。

 そのプロセスの中から、

 やがて旧石器時代から縄文時代への文化の変遷や交替が生まれてきたものと私も考えている。

 「縄文文化の誕生」という日本の歴史の中で、きわめて画期的な事件が、

 この晩氷期の気候変化への対応の中から徐々 に進行したものとみることができるのである。

 いったいその画期的な事件は、

 どのような内容をもって進行したのだろうか。

 縄文文化の誕生劇の進行を、われわれは改めて次章で追ってみることにしよう。

 《参考》

 旧石器時代の遺跡一覧

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2011年9月26日月曜日

シベリアからきた文化

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《シベリアからきた文化

 図13 は札幌大学の木村英明氏の

 北海道の旧石器時代の石器の組み合わせについての資料を、

 わかりやすく改めたものである。

 北海道では三角山(千歳市)、嶋木(上士幌町)、樽岸(後志)など・

 細石器を伴わない古いマンモス・ハンターの遺跡もあるが、

 図をみてもわかるように、

 北海道の旧石器時代の遺跡の大部分(四分の三余)は細石刃を出土するものである。

 しかも、その細石刃文化の遺跡では、

 石刃や掻器、削器などの一般的な狩猟用具や生活用具のほかに、

 荒屋型の彫器が細石刃と一緒に出土する比率が大へん高い(約八〇バーセント)。

 細石刃は、木や骨や角の軸に細い溝を刻み、

 そこに埋め込んで使うことは前にも説明したとおりだが、

 彫器はその溝を刻むための工具として用いられたに違いない。

 さらに細石刃をはがしとる細石核については、いくつかの類型があるようだが、

 北海道で出土する細石核のにとんどすべては、

 クサビ形細石核として大きくまとめることができるという(図12)。

 つまり、北海道の細石刃文化は、

 クサビ形細石核を主体として荒屋型の彫器がそれに伴うという点に

 顕著な特色がみとめられるのである。

 しかも、この細石刃文化は、

 一万五○○○~一万四○○○年既ど前にシベリアから北海道にもたらされ、

 いっきにひろがったと想定されている。

 その理由は、この種の細石刃文化は、古い時代にシベリアで生まれ、

 やがて東方や南方に展開したと考えられているためである。

 シべリア考古学にくわしい加藤晋平氏によると、

 クサビ形細石核を用いる細石刃文化は、

 ユーラシア大陸の中でも

 シベリアから東アジア(モンゴル、中国北部、朝鮮半島、日本など)にかけての地域で

 とくに発達したものだという。

 しかも、日本列島のクサビ形細石核と関連をもつと考えられる細石刃文化には、

 大別して、

 シベリアのバイカル湖を中心としたグループ、

 華北の黄河文化セン夕ーを中心としたグループ、

 そして華南の西樵山を中心とL たグループの三つがある。

 このうち黄河グループと西樵山グループの細石刃文化は、

 後に述べるように、

 北部九州や西日本の細石刃文化と何らかの関係を有することは確かなようだが、

 日本列島に展開した細石刃文化の源流として、

 もっとも重要だと考えられるのは第一のバイカル湖グループのようである。

 なかでもクサビ形細石核と

 荒屋型彫器(シべりアでは同種の彫器を

 「ヴェルホレンスク型彫器」とよんでいる)の両者が、

 つねにセットになっているといらユニークな細石刃文化は、

 バイカル湖周辺に起源したものと推定されている。

 最近のソ連の考古学者たちのくわしい研究によると、一二万~二万年前ごろに、

 この文化はバイカル湖辺に出現したが、その後、東方や南方へひろがった。

 その中にはべーリンゲ崩映をこえてアラスカへ向かったものもあるが、

 東へ向かったものの一部はサハリンをへて北海道にまで達したと推定されている。

 前ページの図14 は、その関係をわかりやすく示したものである。

 いずれにしても、北海道にまで達したこのクサビ形細石核に荒屋型彫器を伴う文化は、

 北海道からさらに津軽海峡をこえて東北日本にひろがり、

 少なくとも一万三〇○○年前ごろまでには新潟県の荒屋遺跡のあたり、

 つまり中部地方北部にまで達したことは臣ぼ間違いない。

 しかも、この細石刃文化の影響は大へん強かったようで、

 東北日本では、それ以前のナイフ形石器文化の伝統が消滅してしまっている。

 そこでは新しい細石刃文化が、古いナイフ形石器文化にとってかわったと考えてもよいようである。

 なお、この種のシベリアからきた細石刃文化の痕跡は、最近の情報によると、

 関東地方の一部やさらに西方の岡山県北部の

 中国山地(たとえば上斎原村恩原遺跡)でも発見されている。

 「図13」北海道の旧石器時代の石器の組台せ

  資料は「北海道のおもな先土器時代の過跡にみられる石器の組合せ」

  (木村英明、1985による。)

  もとの資科は遺跡ごとに石器の組合せを示しているが全体に集十して図化した。

 「図14」細石刃文化の拡散と伝播

 (加藤晋平1986 により改変)

 《参考》

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2011年9月25日日曜日

日本における細石刃文化の発見

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《日本における細石刃文化の発見

 一九五三(昭和二八)年も終わりに近い一二月二八日、

 長野県の野辺山高原の一角で、

 吹雪をついて三人の考古学者が寒さと闘いながら発掘を行っていた。

 その中の一人、

 芹沢長介氏は身てついた土の中から青い半透明の石の肌をもつ

 みごとな細石核を掘り出すのに成功した。

 それは日本における細石器の最初の発見である。

 そのときの感動とそれに至る経緯は、

 八ヶ岳の南麓の野辺山高原に位置するこの矢出川遺跡は、

 その後の調査によって、性格の異なる二つの遺跡から成ることがわかった。

 安田喜憲氏のくわしい花粉分析の研究がある。

 それによると、氷期にひろく分布していた

 トウヒ、ハリモミ、シラビソ、コメツガ、チョウセンゴヨウなどの

 亜寒帯針葉樹が少なくなり、

 かわって台地上にはハシバミやカンバ類の疎林とヨモギ類、

 イネ科の草本を中心とする乾いた草原がひろがり、

 矢出川沿いにはイヌコリヤナギ、ハルニレ、ハンノキなどの湿地林があり、

 その周辺には湿原が発達していたという。

 ハシバミの実が豊かにみのり、草原と湿地が交錯する台地とその周辺には、

 シカやイノシシが数多く生息していたと思われる。

 当時、気温は現在より三~五度ほど低かったと想定されるが、

 細石刃文化をもつ人たちが狩猟・採集の生活を営むには、

 この地の自然はなかなか適したものだったと考えられる。

 芹沢氏の『日本旧石器時代』(岩波新書)の中にくわしく語られている。

 その一つは、黒曜石をおもな石材とした数多くの細石刃と細石核が出土するほか、

 少量のナイフ形石器や掻器を出土する細石器時代の遺跡である。

 他の一つは、それ以前のナイフ形石器と槍先形尖頭器を主体とし、

 細石器をほとんど出土しない遺跡である。

 また、問題の細石器が出土する一万三○○○年~一万年前のこの付近の環境については、

 安田喜憲氏のくわしい花粉分析の研究がある。

 それによると、氷期にひろく分布していた

 トウヒ、ハリモミ、シラビソ、コメツガ、チョウセンゴヨウなどの

 亜寒帯針葉樹が少なくなり、

 かわって台地上にはハシバミやカンバ類の疎林とヨモギ類、

 イネ科の草本を中心とする乾いた草原がひろがり、

 矢出川沿いにはイヌコリヤナギ、ハルニレ、ハンノキなどの湿地林があり、

 その周辺には湿原が発達していたという。

 ハシバミの実が豊かにみのり、草原と湿地が交錯する台地とその周辺には、

 シカやイノシシが数多く生息していたと思われる。

 当時、気温は現在より三~五度ほど低かったと想定されるが、

 細石刃文化をもつ人たちが狩猟・採集の生活を営むには、

 この地の自然はなかなか適したものだったと考えられる。

 ところで、矢出川遺跡で細石器が発見された四年後の一九五七年秋、

 新潟県の荒屋遺跡でも細石器が数多く出土することがわかり、

 翌五八年の春に芹沢長介氏らにより発掘調査が行われた。

 この荒屋遺跡の出土遺物は、

 細石刃六七六、クサビ形細石核二四、荒屋型彫器四○一はじめ、

 剥片や石屑多数を含め総計二○○○点余に達した。

 遺物と同じ地層から出土した木炭片の14C年代は13,200±350 年前だったという。

 この遺跡は、信濃川と魚野川の合流点に近い段丘上に位置し、

 いまも非常に雪深いところだが、

 この荒屋遺跡で発見された細石器文化の内容は、

 矢出川遺跡のそれと大へん異なることが注目された。

 両遺跡とも細石刃を主体とすることは同じだが、荒屋遺跡の場合には、

 石器の組み合わせがより豊富で、

 荒屋型とよばれる石器の周縁部を細かく叩いて調整を加えた

 特殊な彫器が四○一点も出土している。

 それに対し、矢出川遺跡では彫器はほとんどなく、

 そのかわりに荒屋では出上しないナイフ形石器が出土している。

 また、細石刃をはがしとるための原石に当たる細石核についてみても、

 荒屋遺跡のそれはやや大型のクサビ形(舟底形ともいう)細石核が

 特徴的であるのに対し、矢出川遺跡では粗割りの礫(母岩)を素材とした

 円錐形または角柱状の小型の細石核が用いられていた。

 このように二つの遺跡の示す文化は、同じ石刃(器)文化でありながら、

 石材や石器の組み合わせ、さらには細石刃技法などの点でも、

 まったく相違する異なった文化であることが明らかになった。

 しかも、その後の調査によると、

 矢出川型の円錐形または角柱状の細石核をもっ細石刃文化は、

 関東地方、中部地方南部から近畿・中国・四国地方にひろく分布する。

 それに対し、荒屋型のクサピ形細石核をもつ石器群は、中部地方の北半から東北地方、

 北海道地方にひろく分布することが明らかになった(図11)。

 なかでも北海道地方においては、

 このクサビ形細石核をもっ細石刃文化がよく発達していたことがわかってきた。

 「写真24」矢出川遺跡

  遠くに八ケ岳をのぞむ、海抜1300 -1400 メートルの矢出川をとり囲む段丘上に、

  この遺跡はいくつかのグループに分かれて立地している。

  安田喜憲氏提供。

 「図11」細石刃文化の東と西
  晩氷期の日本列島では、東日本にクサビ形細石核に荒屋型彫器を伴う文化が、

  西日本には円錐形または角柱状の細石核をもち、

  ナイフ形石器の伝統を残す文化が分布していた。

 (小田静夫 1979 をもとに一部改変)

 「写真25」

  A クサビ形細石核石器

    新潟県荒尾遺跡出土。

    細石刃クサビ形細石核および荒屋型彫器。

  B 半円錐形細石核石器

    長野県矢出川遺跡出土。

    円錐形細石核と細石刃。

    明治夫学考古博物館。

 「図12」細石核の類型

  図13によると、石刃や掻器とともに細石刃、細石核や荒屋型彫器の出土鰍が多く、

  図12 によれば、細石核の中ではクサビ形のそれが圧倒的に多い。

 「図13」北海道の旧石器時代の石器の組台せ

  資料は「北海道のおもな先土器時代の過跡にみられる石器の組合せ」

  (木村英明、1985による。)

  もとの資科は遺跡ごとに石器の組合せを示しているが全体に集十して図化した。

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2011年9月24日土曜日

細石刃文化とは

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《細石刃文化とは

 ナイフ形石器によって特色づけられた旧石器時代のⅡ期は、前にも述べたように、

 一万三〇〇〇年前ごろに終わる。

 それ以後は、ナイフ形石器群にかわって、

 細石刃石器群が日本列島にひろく分布するようになる。

 細石刃は大へん小さな石刃で、それ一つでは道具としては役立たない。

 骨や角や木の軸に細い溝を彫り、

 そこに数本の細石刃を埋め込んで樹脂やアスファルトなどで固定させ、

 槍や銛、ナイフとして使うのである(次べージのコラム参照)。

 このような利器を植刃器というが、ちょうどカミソリの刃を埋め込んだのと同じで、

 溝からほんの少し顔を出した細石刃の鋭い刃先が、

 獲物の固い皮を切り裂き、体内に深く突き刺さるようにできている。

 写真23 は、シべリアのココレヴォⅠ遣跡の出土品で、大型の野牛の肩甲骨に、

 細石刃を植え込んだシカの角製の植刃器(槍)の先端が突き刺さったまま発見された。

 突き刺さった槍先の角度から、

 槍は一・五~一・六メートルの高さからほぼ水平に打ち込まれたとみられている。

 狩人は至近距離から植刃器を投げ槍として使ったらしい。

 狩人たちは、狩りの終わったあと、落ちこぼれた細石刃を新しいもので補充し、

 また次の狩猟に使ったことだろう。

 この例でもわかるように、鋭い細石刃をいくつも植え込んだ槍は大へん高い殺傷力をもち、

 しかも、細石刃を植えかえることによって、槍はくり返し使用することができた。

 このように、細石刃は組み合わせて使うと

 きわめて高い機能を発揮する道具の部品としてつくり出されたものといえる。

 部品だから同一規格の鋭い細石刃が大量に必要だ。

 それを得るための技術が細石刃技法と称されるもので、

 母岩を適当な形にととのえて必要な石核をつくり出し、

 そこから細石刃を連続的にはぎとるのである(コラム参照)。

 幅数ミリに満たない小さくて鋭い細石刃を連続してつくり出し、

 それを組み合わせて使用する技術というのは、長い旧石器時代の最後の段階になって、

 人類が生み出した最高の石器の製作・使用技術だということができる。

 この種の細石刃技術をもつ石器群は、

 旧石器時代の終末期になって旧大陸の各地域にあらわれ、

 やがてその全域にひろがった。

 しかも注目すべきことは、この細石刃文化の中から、

 人類の革新的な文化が生第み出されてきたことである。

 たとえば中近東地域における農耕・牧畜文化は

 ナトゥフ文化で代表されるような細石刃(器)文化の中から生まれたし、

 華北の農耕文化も細石刃文化をベースにして誕生したといえる。

 農耕・牧畜の発生しなかった北ユーラシアにおいても、

 後に説明するように、土器がこの文化の中から発生してきているのである。

 このように細石刃文化は新しいタイプの文化を生み出す

 大きな潜在力を有していたようである。

 このような事実をふまえ、東アジアの旧石器文化にくわしい

 加藤晋平氏は

 「日本独特の縄文土器文化の発生は、やはり、この細石刃文化のなかにある。

  私たちが現在有している日本の基層文化は、

  今から一万四○○○年前ち一万三○○○年前に

  日本列島をおおった細石刃文化のなかに求めることができる」

  (加藤晋平、一九八六年)と述べている。

 日本文化の形成の問題を考えるうえで、

 この加藤氏の指摘はなかなか意味深いものだということができる。

 では、日本列島では、この種の細石刃(器)文化は、

 具体的にどのような特色をもって存在し、

 その文化はどこから伝来したと考えられるのだろうか。

 「コラム」細石刃のつくり方

  1 ブランク(母型)

    原石を割って、木ノ葉形の石器(ブランク、母型)を用意する。

  2 スボール

    ブランクの剥離をくり返すいポールをとる)。

  3 クサビ型細石核:細石刃

    半月状の石核(細石核)を押圧剥離

    (先の尖った鹿角などを強く押しつけて石片をはぐ方法)で、

    連続的に細石刃をつくる。

    石核の断面がクサビ形細石核とよばれる。(木村英明 1985による)

 「図」細石刃のつくり方

  ① 原石から母型(ブランク)をはがす。

  ② ブランクをたたいて形をととのえる。

  ③ スポールをはぎとり、細石核をつくる。

  ④ 細石核から細石刃を押圧剥離ではがす。

  ⑤ ブき上がった長さ20 ミリほどの細石刃。

   岩本圭輔氏作製

 「図」装着された紐石刃

  細石刃を骨や木に刻まれた溝にはめ込んで、おもに投げ槍として使用した。

  デンマーク出土。鈴木忠司氏提供。

 「写真23」野牛の肩甲骨に突きささった槍先

  槍先(植刃尖頭器)は、長さ約11cm で、片側に幅1 -2 mm の溝が刻まれ、

  細石刃が植え込まれていた。

 ソ連・ココレヴォⅠ遺跡(1.4-1.3 万年前ごろ)出土。木村英明氏提供。

 《参考》
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2011年9月23日金曜日

はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 最後に、当時の住居については、最近、いくつかのよい資料が報告されるようになった。

 たとえば北海道の中本遺跡長野県の駒形遺跡などでは、

 浅い堅穴状の遺構の中に炉跡などが発見されている。

 だが、ここでは一九八六(昭和六一)年に発見された大阪府のはさみ山遺跡の例によって、

 当時の住居の実態をみてみることにしよう。

 はびきの大阪の河内平野の南縁を画する羽曳野丘陵の北側に低い丘がのびている。

 その一角に、旧石器時代の住居祉が発見された。

 はさみ山遺跡とよばれるこの遺跡は、

 近鉄バファローズの名捕手だった梨田昌孝氏の住宅建設予定地に当たり、

 住居域はその南半分が発掘された。

 全体を復元してみると、東西約六メートル、南北五メートルほどの楕円形をなし、

 深さ約三〇センチほどの浅い竪穴住居だったらしい。

 一・○~一・七メートルの間隔で七個の柱穴が発掘されたが、入り口の柱らしい二本を除き、

 いずれも住居の内側にゆるく傾斜し、総計一三~一四本の柱で上屋を支えていたと思われる。

 住居内の床面には灰黄褐色の砂が厚さ一○~二○センチほど敷きつめられており、

 住居の周囲には幅五○ ンチほどの溝がめぐらされていた。

 屋内に炉跡は見つからなかったが、

 住居の西に接して長径一・五メートル、深さ一三センチにどの掘り込みがある。

 埋土の表面に熱をうけて破砕されたサヌカイト礫が出土したので、炉跡とも考えられるが、

 住居の付属施設の可能性もあるという。

 また、この遺跡からは国府型ナイフ形石器一三点、小型ナイフ形石器二点、

 翼状剥片一二点、同石核四点を含む二三八点の石器が出土したが、

 その大部分は住居址内の敷砂の上面や住居の周辺二メートルあまりの範囲に

 集中していたという。

 つまり、この住居が生活の拠点になっていたことがよくわかる。

 このような状況からみて、はさみ山遺跡の住居は、

 ヴユルム氷期最盛期ごろの典型的な住居の一つと考えられるが、

 それは溝をめぐらし、砂を敷き、かなり丹念につくられたもので、

 ひと冬をここで越冬するための住居ではなかったかと私は想像している。

 上屋を何でつくったかは不明だが、

 発掘された七個の太い柱穴のあいだに

 径一○~一八センチほどの浅い掘り込みがいくつもみとめられたので、

 補助的な多数の垂木材を用い、

 その上に草や芝土などをのせた保温性の高い住居であったと考えておくことにしよう。

 ニヴヒやアリュートなどの民族例を参考にして考えると、

 この種の土をのせた堅穴式の「冬の家」

 (ニヴヒの竪穴住居については4 章・図43 、および5 章・図118 参照)のほか、

 皮製テントや簡単な高床の「夏の家」が

 ナイフ形石器の時代にも存在した可能性が少なくない。

 さらに、このはさみ山遺跡では、住居堆の東側四メートルほどのところに、

 南北にのびる幅一○メートルほどの浅い谷があり、

 その東側に墓と思われる穴(土墳・土坑)が発見された。

 東西二・七メートル、南北一・六メートル、深さ五○センチほどの舟底形の穴で、

 その底面の東端に長さ二六センチと二一センチの

 大きなサヌカイトの石核が二つ置いてあった。

 いずれも石器をつくるための剥離作業を行っている途中の石核で、

 どちらも原石の表面を下にして置かれていたというから、いかにも作為的で副葬品らしい。

 このはさみ山遺跡では、小さな谷川をはさんで、

 西側には住居が、東側には墓地が営まれたわけである。

 さらに、この谷川に沿い、

 はさみ山遺跡の南には国府型のナイフ形石器などが多数出土したほか、

 少し後の時代の有茎尖頭器も出土した青山遺跡その他があり、

 はさみ山遺跡の北には同じようにナイフ形石器時代の石器や

 有茎尖頭器を出土した西大井遺跡その他がある。

 つまり、はさみ山遺跡の立地する丘陵とその周辺は、

 国府型ナイフ形石器が卓越する時代から有茎尖頭器の時代にかけて、

 旧石器時代人たちが、

 継続的に生活の場として利用していたことがよくわかるのである。

 その当時、この丘陵とその周辺には、チョウセンゴヨウを主とする針葉樹や

 ミズナラ、カバノキ、ハシバミなどの落葉広葉樹の混合林がひろがっていたと思われる。

 また、丘陵の西方には湿原も存在していたらしい。

 おそらくオオツノジカをはじめ、ナウマンゾウ、ニホンムカシジカなどが

 付近に数多く生息し、この一帯は彼らにとって絶好の狩場であり、

 生活の場であったと考えられる。

 さらに、石器の原石としてよく使われるサヌカイトの産地として名高い

 二上山のごく近くに位置していたことも、生活に好都合だったと思われるのである。

 大きなサヌカイトの石核とともに葬られた、はさみ山遺跡の被葬者は、

 このあたりを冬のキャンプ地にしていた村人たちの中の

 顔役の一人であったのかもしれない。

 「写真22」はさみ山遺跡はさみ山遺跡の住居址

  調査が行われたのは遺跡の南半分だけであった。

  図と対比してみると、くわしいことがわかる。

  7カ所の柱穴(凡例参照)は直径14~22cm 、それぞれ5 ~8 cm の深さをもつ。

  手前から2 番目と3 番目咽でP-5 とP-6 ) のあいだが入口だったと思われる。

  大阪府教育委員会。

 「図10」はさみ山遺跡の住居と墓地

  小さな谷をはさんで、住居祉から20m 余り離れたところに墓地(土墳)があり、

  丁重な埋葬が行われたらしい。

  (大阪府教育委員会、1986 による)

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 『参考ブログ』

 「歴史徒然」
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