出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:29~31頁
第1章 日本列島の旧石器時代
2 氷河時代の世界と日本
さて、私は前の節で、中期更新世とか、旧人や原人、
あるいは前期旧石器時代というような用語を、何の説明もなく用いてきた。
このあたりで一度こうした用語の整理を行い、読者にひろく世界的な視野の中で、
日本の旧石器文化を位置づけていただきたいと思うのである。
《更新世の人類史》
人類が地球上にあらわれたのは、いまから二〇〇万年ほど以前、
あるいは約三〇〇万年前ともいわれている。
地質学の分類でいうと、ちょうど二〇〇万年ほど前から
第四紀の「更新世」とよばれる時代がはじまる。
以前はノアの洪水のような大洪水で堆積物(地層)が形成された時代ということで、
この時代は「洪積世」とよばれていた。
だが、最近では国際的に用いられる
プライストシーンの訳語の「更新世」が用いられるようになった。
この更新世は、後にもう一度説明するが、
陸地の約三分の一が氷河におおわれた時代で「氷河時代」ともよばれ、
それは約一万年前に終わる。
それ以降は、現在の河川の堆積、
つまり沖積作用が行われる時代ということで、「沖積世」とよばれていたが、
最近ではホロシーンの訳語「完新世」が使われるようになった。
いずれにしても、更新世と完新世の二つの時期から成る第四紀は、
人類が出現し、その文化を展開させた時期ということで
「人類紀」ともよばれている。
地球上に最初にあらわれた人類は猿人(アウストラロピテクスの仲間)とよばれ、
主としてアフリカでその遺骨や遺物が発見されている。
脳の容量は現代人の半分以下(五〇〇~六〇〇立方センチ)で、
原始的な礫器を使って八〇~七〇万年前ごろまで生活していたらしい。
この八〇~七〇万年前ごろには猿人とは別の新しい夕イプの人類、
原人(ホモ・エレクトウスの仲間)が地上にあらわれる。
原人の脳容量は約一〇〇〇立方センチにどで、
このころになると形のととのった石器があらわれ、
用途に応じた石器もつくられるようになる。
彼らは火を使用していたことは確かで、
アフリカをはじめヨーロッパ(ハイデルべルク人)、
東南アジア(ジャワ原人)、
中国(北京原人、元謀人など)にまで、その分布がひろがった。
この猿人と原人の生きていた時代が、
「前期旧石器時代」に当たるといわれている。
さらに一五~一〇万年前ごろになると旧人(ネアンデルタール人の仲間)が出現する。
旧人の脳容量は約一二〇〇~一三〇〇立方センチになり、
多くの新しい生活技術が蓄積されるようになった。
たとえば石器では剥片石器が多用されるようになり、
用途の異なる数多くの石器がつくり出されるようになる。
それとともに、生活空間がいっそう拡大し、
東アジアではその分布は北緯四五度付近にまで達し、
ヨーロッパでは彼らの生み出したムスティエ文化の痕跡は
亜寒帯地域にまで達している。
この旧人が活躍していた時代が一般に「中期旧石器時代」とされている。
次に四~三万年前ごろになると、
われわれと同じ種類の人間である新人(クロマニヨン人の仲間)が登場してくる。
脳容量は現代人と臓ぼ同じ(約一五〇ゼロ立方センチ)となった。
彼らは旧人によって生み出された生活技術の上に新しくすぐれた要素を数多く加え、
その文化を発展させた。
この時代が一般に「後期旧石器時代」とよばれている。
とくにアジア大陸の北部に展開した新人は極北地域にまで進出し、
氷河時代の厳しい条件によく耐えて、
その一部はべーリング陸橋をこえて新大陸へ移動していったことも忘れてはならない。
「写真7」化石人類の頭骨とその復元
猿人(アウストラロピテクス)
原人(北京原人)
旧人(ネァンデルター人)
新人(周口店山頂洞人)
国立科学博物館
東京大学総合研究資料館
「表1」先史時代年表(400万年前~現代)
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
2011年9月14日水曜日
2011年9月13日火曜日
最古の狩猟民文化の系譜
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:29頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《最古の狩猟民文化の系譜》
ところで、中峰C遺跡や馬場壇A遺跡の発掘によって、
日本列島でも一三~一四万年前から二〇万年前ごろに、
狩人たちの文化が存在していたことがわかってきた。
この時代は、地質学の分類でいうと中期更新世に当たる時期で、
現在のわれわれと身体つきがやや異なる旧人が生存していた時代であった。
あるいは北京原人のような原人が生活していたかもしれない。
いずれにしても、彼らはアジア大陸から、
馬場壇A遺跡や中峰C遺跡で
示されるような文化をもって日本列島にやってきたのである。
しかも、日本列島の周辺の中期更新世に属する人類の遺跡をみると、
その分布はいまのところ中国の遼寧省の南部、
ほぼ北緯四五度以南の地域に限られているという。
日本列島は南北に細長くのびるので、
アジア大陸との住来の玄関口は、
北(サハリン―北海道)と南(朝鮮半島―九州)の二つが考えられる。
しかし、北緯四五度以北に向かって開いている北の玄関口は、
寒冷な気候に支配されていたその当時はまだ開かれていなかったとみてよい。
ということは、馬場壇A遺跡や中峰C遺跡で示される最古の狩人の文化は、
南の玄関ロから日本列島へ入ってきたと考えられるのである。
とすると、宮城県中部よりももっと南西の地方で、
前期旧石器時代の、それこそ最古の狩猟民文化の痕跡が、
今後、発見される可能性は少なくないのである。
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
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「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
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「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
日本史誕生:29頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《最古の狩猟民文化の系譜》
ところで、中峰C遺跡や馬場壇A遺跡の発掘によって、
日本列島でも一三~一四万年前から二〇万年前ごろに、
狩人たちの文化が存在していたことがわかってきた。
この時代は、地質学の分類でいうと中期更新世に当たる時期で、
現在のわれわれと身体つきがやや異なる旧人が生存していた時代であった。
あるいは北京原人のような原人が生活していたかもしれない。
いずれにしても、彼らはアジア大陸から、
馬場壇A遺跡や中峰C遺跡で
示されるような文化をもって日本列島にやってきたのである。
しかも、日本列島の周辺の中期更新世に属する人類の遺跡をみると、
その分布はいまのところ中国の遼寧省の南部、
ほぼ北緯四五度以南の地域に限られているという。
日本列島は南北に細長くのびるので、
アジア大陸との住来の玄関口は、
北(サハリン―北海道)と南(朝鮮半島―九州)の二つが考えられる。
しかし、北緯四五度以北に向かって開いている北の玄関口は、
寒冷な気候に支配されていたその当時はまだ開かれていなかったとみてよい。
ということは、馬場壇A遺跡や中峰C遺跡で示される最古の狩人の文化は、
南の玄関ロから日本列島へ入ってきたと考えられるのである。
とすると、宮城県中部よりももっと南西の地方で、
前期旧石器時代の、それこそ最古の狩猟民文化の痕跡が、
今後、発見される可能性は少なくないのである。
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
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2011年9月12日月曜日
最古の狩人たち
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:26~28頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《最古の狩人たち》
ところで、岩宿の発見以後、約四〇年、
つぎつぎと旧石器文化の遺跡が発見されてきたことはすでに述べたが、
それでは日本列島におけるもっとも古い文化の痕跡はいつごろまでさかのぼれるのだろうか。
一九七〇年代の後半から八〇年代にかけ、宮城県北西部の江合川流域で
座散乱木、馬場壇A、中峰Cなどの諸遺跡が発掘され、
この問題の解決に大きな前進がみられた。
一九八三(昭和五八)年に宮城県教育委員会が
発掘した中峰C遺跡では、地下三・五メートルほどのところに
厚さ約五〇センチほどの軽石層(Ⅵ層)があり、
その年代を測定したところ、約一四万年前といら結果が出た。
さらに、その下約一メートルほどのところにあるⅦ層からは、
合計一〇六点の石器が数カ所からまとまって発見された。
玉髄や碧玉などを材料とした小型の剥片石器と
安山岩などでつくられた大型の粗雑な石器とがある。
これらの旧石器とその示す文化の年代や生格については、
少なくとも一四万年前よりかなり以前の、
一説には二〇万年ほど前の文化の痕跡を示すのではないかといわれているが、
くわしいことはまだよくわかっていない。
しかし、この石器群は、次に述べる馬場壇A遺跡のそれとともに、
いまのところ日本で発見された最古の石器群であることは間違いない。
さて、馬場壇A遺跡というのは江合川左岸の丘陵上にある遺跡で、
一九八〇年に崖の斜面の白い粘土層の下から石器が二〇点ほど採集された。
この白い粘度層は約五万年前の火山灰層だとわかったので、
馬場壇A遺跡は江合川流域における最古の遺跡として注目されるようになった。
そこで一九八四年から
東北歴史資料館と地元有志の人たちの石器文化談話会が
共同で発掘することになり、大きな成果をあげている。
発掘しはじめてみると、
深さ六メートルほどの地層の中に
火山灰や軽石などで溝成された火山噴出物の層がみとめられた。
考古学者たちはこれらの火山噴出物の層を鍵層として、
この遺跡では三三層もの文化層を区別している。
その中で注目されるのは、約一三万年前に噴出したと考えられる
一迫軽石層のすぐ下にある第二〇層である。
発掘者の岡村道雄氏によると、軽石層をとり除くと、
凹凸のある当時の地表面があらわれた。
発掘区のほぼ中央には浅い沢があり、
その凹地をとり囲むように五~六カ所からまとまって石器が出上した。
石器は玉髄や碧王などの石材を主とし、小型の石核を用い、
それを打ち欠いてつくった不定形の剥片石器が多い。
その特色は、前に述べた中峰C遺跡の最下層のものと共通するといわれている。
また、石器がまとまって出土した場所の残留磁気を測定したところ、
非常に強い磁力を帯びた場所が見っかり、
そこがたき火跡であることが明らかになった。
さらに、他の場所から出土した石器や
その周辺の土の中に残されていた微量の脂肪酸を
帯広畜産大学の中野益男氏が分析したところ、
ナウマンゾウやオオツノジカの脂肪が石器に付着し、
土にも滲み込んでいることがわかった。
脂肪酸分析というのは、最近に開発された研究法の一つで、
動物の種ごとに脂肪酸の組成が異なるという原理を応用し、
石器や土器などに付着していた脂肪を精密機器を用いて分析し、
その脂肪酸の組成を明らかにして、
動物の種類を決めようというものである。
馬場壇A遺跡の石器などに付着していた脂肪酸は、
はじめイノシシのものに近いとされていたが、
北海道広尾郡忠類村で出土したナウマンゾウの遺体に残留していた脂肪酸との比較から、
ナウマンゾウのものと決定されたという。
さらに、この遺跡で発見された石器の中には、脂肪酸が付着していただけでなく、
動物の角や骨、あるいは皮や肉を加工・調理したときのものと思われる
磨耗のあとや光沢(これらは一般に「使用痕」とよばれる)が
みとめられるものが少なくない。
石器の一つ一つが狩猟生活を営むための大切な道具として
使われていたことがわかるのである。
また、前にも述べたように、この馬場壇A遺跡の第二〇層では、
石器の集中的な出土地点が数カ所半円形に並んでいる。
その出土地点は、
それぞれ五人前後の小集団がたき火を囲んで
短期間の生活を送ったあとだろうと岡村道雄氏は推定している。
彼らは、おそらくナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣を
湿地や崖下などへ追い込んで捕獲したり、他の小動物を捕らえ、
その解体や調理を共同で行った最古の狩人たちだったと考えられるのである。
「図1」江合川流域とその周辺のおもな旧石器時代遺跡
「写真5」馬場壇A遺跡の発掘風景
白い火山灰層の下から旧石器がまとまって出土した。
いまのところ、わが国で最古の遺跡の一つである。
出土した小型の旧石器。
東北歴史資科館
「写真6」ナウマンゾウの復元骨格
北海道広尾郡忠類村出土
体長3.6m 、体高24m。
ナウマンゾウは、
華北から日本列島にかけてひろく分布していた黄上動物群を代表する。
北海道開拓記念館
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
日本史誕生:26~28頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《最古の狩人たち》
ところで、岩宿の発見以後、約四〇年、
つぎつぎと旧石器文化の遺跡が発見されてきたことはすでに述べたが、
それでは日本列島におけるもっとも古い文化の痕跡はいつごろまでさかのぼれるのだろうか。
一九七〇年代の後半から八〇年代にかけ、宮城県北西部の江合川流域で
座散乱木、馬場壇A、中峰Cなどの諸遺跡が発掘され、
この問題の解決に大きな前進がみられた。
一九八三(昭和五八)年に宮城県教育委員会が
発掘した中峰C遺跡では、地下三・五メートルほどのところに
厚さ約五〇センチほどの軽石層(Ⅵ層)があり、
その年代を測定したところ、約一四万年前といら結果が出た。
さらに、その下約一メートルほどのところにあるⅦ層からは、
合計一〇六点の石器が数カ所からまとまって発見された。
玉髄や碧玉などを材料とした小型の剥片石器と
安山岩などでつくられた大型の粗雑な石器とがある。
これらの旧石器とその示す文化の年代や生格については、
少なくとも一四万年前よりかなり以前の、
一説には二〇万年ほど前の文化の痕跡を示すのではないかといわれているが、
くわしいことはまだよくわかっていない。
しかし、この石器群は、次に述べる馬場壇A遺跡のそれとともに、
いまのところ日本で発見された最古の石器群であることは間違いない。
さて、馬場壇A遺跡というのは江合川左岸の丘陵上にある遺跡で、
一九八〇年に崖の斜面の白い粘土層の下から石器が二〇点ほど採集された。
この白い粘度層は約五万年前の火山灰層だとわかったので、
馬場壇A遺跡は江合川流域における最古の遺跡として注目されるようになった。
そこで一九八四年から
東北歴史資料館と地元有志の人たちの石器文化談話会が
共同で発掘することになり、大きな成果をあげている。
発掘しはじめてみると、
深さ六メートルほどの地層の中に
火山灰や軽石などで溝成された火山噴出物の層がみとめられた。
考古学者たちはこれらの火山噴出物の層を鍵層として、
この遺跡では三三層もの文化層を区別している。
その中で注目されるのは、約一三万年前に噴出したと考えられる
一迫軽石層のすぐ下にある第二〇層である。
発掘者の岡村道雄氏によると、軽石層をとり除くと、
凹凸のある当時の地表面があらわれた。
発掘区のほぼ中央には浅い沢があり、
その凹地をとり囲むように五~六カ所からまとまって石器が出上した。
石器は玉髄や碧王などの石材を主とし、小型の石核を用い、
それを打ち欠いてつくった不定形の剥片石器が多い。
その特色は、前に述べた中峰C遺跡の最下層のものと共通するといわれている。
また、石器がまとまって出土した場所の残留磁気を測定したところ、
非常に強い磁力を帯びた場所が見っかり、
そこがたき火跡であることが明らかになった。
さらに、他の場所から出土した石器や
その周辺の土の中に残されていた微量の脂肪酸を
帯広畜産大学の中野益男氏が分析したところ、
ナウマンゾウやオオツノジカの脂肪が石器に付着し、
土にも滲み込んでいることがわかった。
脂肪酸分析というのは、最近に開発された研究法の一つで、
動物の種ごとに脂肪酸の組成が異なるという原理を応用し、
石器や土器などに付着していた脂肪を精密機器を用いて分析し、
その脂肪酸の組成を明らかにして、
動物の種類を決めようというものである。
馬場壇A遺跡の石器などに付着していた脂肪酸は、
はじめイノシシのものに近いとされていたが、
北海道広尾郡忠類村で出土したナウマンゾウの遺体に残留していた脂肪酸との比較から、
ナウマンゾウのものと決定されたという。
さらに、この遺跡で発見された石器の中には、脂肪酸が付着していただけでなく、
動物の角や骨、あるいは皮や肉を加工・調理したときのものと思われる
磨耗のあとや光沢(これらは一般に「使用痕」とよばれる)が
みとめられるものが少なくない。
石器の一つ一つが狩猟生活を営むための大切な道具として
使われていたことがわかるのである。
また、前にも述べたように、この馬場壇A遺跡の第二〇層では、
石器の集中的な出土地点が数カ所半円形に並んでいる。
その出土地点は、
それぞれ五人前後の小集団がたき火を囲んで
短期間の生活を送ったあとだろうと岡村道雄氏は推定している。
彼らは、おそらくナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣を
湿地や崖下などへ追い込んで捕獲したり、他の小動物を捕らえ、
その解体や調理を共同で行った最古の狩人たちだったと考えられるのである。
「図1」江合川流域とその周辺のおもな旧石器時代遺跡
「写真5」馬場壇A遺跡の発掘風景
白い火山灰層の下から旧石器がまとまって出土した。
いまのところ、わが国で最古の遺跡の一つである。
出土した小型の旧石器。
東北歴史資科館
「写真6」ナウマンゾウの復元骨格
北海道広尾郡忠類村出土
体長3.6m 、体高24m。
ナウマンゾウは、
華北から日本列島にかけてひろく分布していた黄上動物群を代表する。
北海道開拓記念館
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
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2011年9月11日日曜日
日本旧石器文化の確認
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:24~25頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《日本旧石器文化の確認》
この試掘調査の成功の後、明治大学の考古学研究室が
中心になって一九四九(昭和二四)年の秋と翌年春に遺跡の正式な発掘調査が行われた。
その結果、ローム層の中に上下二枚の文化層のあることが確認された。
下層の岩宿Ⅰとよばれる文化層は二万四〇〇〇年前よりも古いとされ、
そこからは硬質頁岩製の楕円形石器(握斧あるいはハンドアックスともよばれる)や
削器(サイドスクレーパー)や縦長剥片などの旧石器が出土した。
また上層の岩宿Ⅱの文化層からは、
瑪瑙や黒曜石でつくられた切出型のナイフ形石器をはじめ、
尖頭器(ポイント)や削器など、比較的小型の旧石器類が出土した。
このようにして関東ロームの赤土層の中に旧石器時代の文化層が、
少なくとも二つあることが確認されたが、その文化層を旧石器時代のものとして、
当時の学界がすぐにみとめたわけではなかった。
はじめのころは「旧石器時代」という語を避けて
「先縄文時代」あるいは「無土器時代」など、
当たりさわりのない呼称が用いられていた。
だが、岩宿の発見を契機として、その後っぎつぎに旧石器時代の遺跡が発見され、
現在、その数は全国で三〇〇〇にもおよぶといわれている。
それに伴い、最近ではもう少し明確な
「先土器時代」あるいは「旧石器時代」という名称がひろく使われるようになってきた。
なかにはこの時代を「岩宿時代」とよぶ人も出てきている。
私は、モれらの用語の中で
「旧石器時代」「旧石器文化」という語を積極的に、
この本の中では用いることにしたい。
先土器時代というのは、土器に先立つ時代という意味で、
土器出現の直前の時期をさすならいいが、
数万年以上の長い時代を示す用語としてはふさわしくない。
これに対し、旧石器時代、旧石器文化という名称は一九世紀中ごろに
イギリス人のJ・ラボックにより提唱されて以来、
ヨーロッパでは約一万年以前の更新世の時代とモの文化をさす言葉として
すでに定着しており、
アフリカ、インド、東南アジア、中国、シべリアなどでもひろく用いられている。
「はじめに」の中でも述べたように、
私は日本文化の形成のプロセスをアジア諸地域の文化史の中K 位置づけて考えよらとしている。
したがって、東南アジアやインド、中国、シベリアなどと同様に、
日本列島においでも更新世の文化やその時代をやはり
旧石器文化」「旧石器時代」とよぶのが適当だと考えるのである。
「写真3」岩宿出土の旧石器 その1
握斧あるいはハンドアックス(9.5㎝)、
削器あるいはサイドスクレーパー(11.3㎝)
縦長剥片(10㎝)
いずれも重要文化財。明治大学考古学博物館
「写真4」 岩宿出土の旧石器 その2
掻器、削器、尖頭器あるいはポイント、ナイフ形石器(いずれも実物大)。
重要文化財。明治大学考古学厚物館。
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
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日本史誕生:24~25頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《日本旧石器文化の確認》
この試掘調査の成功の後、明治大学の考古学研究室が
中心になって一九四九(昭和二四)年の秋と翌年春に遺跡の正式な発掘調査が行われた。
その結果、ローム層の中に上下二枚の文化層のあることが確認された。
下層の岩宿Ⅰとよばれる文化層は二万四〇〇〇年前よりも古いとされ、
そこからは硬質頁岩製の楕円形石器(握斧あるいはハンドアックスともよばれる)や
削器(サイドスクレーパー)や縦長剥片などの旧石器が出土した。
また上層の岩宿Ⅱの文化層からは、
瑪瑙や黒曜石でつくられた切出型のナイフ形石器をはじめ、
尖頭器(ポイント)や削器など、比較的小型の旧石器類が出土した。
このようにして関東ロームの赤土層の中に旧石器時代の文化層が、
少なくとも二つあることが確認されたが、その文化層を旧石器時代のものとして、
当時の学界がすぐにみとめたわけではなかった。
はじめのころは「旧石器時代」という語を避けて
「先縄文時代」あるいは「無土器時代」など、
当たりさわりのない呼称が用いられていた。
だが、岩宿の発見を契機として、その後っぎつぎに旧石器時代の遺跡が発見され、
現在、その数は全国で三〇〇〇にもおよぶといわれている。
それに伴い、最近ではもう少し明確な
「先土器時代」あるいは「旧石器時代」という名称がひろく使われるようになってきた。
なかにはこの時代を「岩宿時代」とよぶ人も出てきている。
私は、モれらの用語の中で
「旧石器時代」「旧石器文化」という語を積極的に、
この本の中では用いることにしたい。
先土器時代というのは、土器に先立つ時代という意味で、
土器出現の直前の時期をさすならいいが、
数万年以上の長い時代を示す用語としてはふさわしくない。
これに対し、旧石器時代、旧石器文化という名称は一九世紀中ごろに
イギリス人のJ・ラボックにより提唱されて以来、
ヨーロッパでは約一万年以前の更新世の時代とモの文化をさす言葉として
すでに定着しており、
アフリカ、インド、東南アジア、中国、シべリアなどでもひろく用いられている。
「はじめに」の中でも述べたように、
私は日本文化の形成のプロセスをアジア諸地域の文化史の中K 位置づけて考えよらとしている。
したがって、東南アジアやインド、中国、シベリアなどと同様に、
日本列島においでも更新世の文化やその時代をやはり
旧石器文化」「旧石器時代」とよぶのが適当だと考えるのである。
「写真3」岩宿出土の旧石器 その1
握斧あるいはハンドアックス(9.5㎝)、
削器あるいはサイドスクレーパー(11.3㎝)
縦長剥片(10㎝)
いずれも重要文化財。明治大学考古学博物館
「写真4」 岩宿出土の旧石器 その2
掻器、削器、尖頭器あるいはポイント、ナイフ形石器(いずれも実物大)。
重要文化財。明治大学考古学厚物館。
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
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2011年9月10日土曜日
岩宿発掘―旧石器の発見
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:22~24頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《岩宿発掘―旧石器の発見》
桐生市の西南約四キロにどのところに両毛線の岩宿駅がある。
その駅の西北にある丘の鞍部に切通しの道が走っているが、
その道の両側には赤土の断面が露出していた。
一般に関東ロームとよばれるこの赤土の層の中から、
黒躍石でできた鋭い石片を一九四六(昭和二一)年以来いくつも発見し、
それが石器ではないかと考えたのは、
行商で生計を立てながら考古学の研究をつづけていた無名の一青年、
相沢忠洋氏であった。
一九四九年の夏、彼は槍の先と思われるみごとな石器を同じ地層の中から発見した。
彼は、それらの資料をもって、
当時はまだ新進の考古学者であった氏に出逢うのである。
芹沢氏は後に日本の旧石器文化研究の第一人者になる人である。
だが、そのころは、考古学者も地質学者も、
ローム層の中から石器が出土するなどということは
だれ一人として考えていなかった時代である。
したがって、相沢青年の持参した一見して旧石器とわかる資料を見せられた
芹沢氏は「眼からウロコが落ちた」ような思いだったという。
芹沢氏はさっそく、当時、明治大学の講師で登呂遺跡の発掘を指揮していた
杉原荘介氏に連絡をとる。
そうしてその年の九月11 日には杉原、芹沢、相沢の各氏に
岡本勇氏を加えた四人が岩宿遺跡へおもむき、その試掘にとりかかったのである。
当時、まだ若い学生であった岡本勇氏は、そのときの感動を次のように書き残している。
「道路を作るために切崩された崖の両側には地層の断面がみられる。
相沢さんによれば断面の下端のローム層から遺物が出るらしい。
ただちに発掘が開始された。胸は高なり、腕はふるえた。
だが意図する石片すらもなかなかでてこなかった。
しかし、午後になってようやく相当数の石片が発見され、大いに気をよくした。
これらは明らかに人工的である。
何もかも忘れて発掘をつづけるわれわれは、ふと冷たいものを肌に感じた。
「この雨がなんだ」シャベルは深くさらに深く壁の中にめりこんでいく。
ルトウシエ(整形加工)を有し、しかも形態の判然とした石器を探したい。
それを発見することによって、旧石器たることは何人によっても確認されるであろう。
いつ雨が止んだかは知らたかった。時計は四時三〇分を示していた。
「五時までやろう、あと三〇分分だ」杉原先生はいった。
ラストへビー、緊張の度はさらにひきしまり、ふるうシャベルの音は高かった。
突然、先生のシャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。
(中略)取りあげた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、
何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。
時まさに四時五〇分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変っていた。
今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、
もはや何人も疑わないであろう。もう何も語ることはない。すべては喜びであった」。
(岡本勇、一九五八年)
「写真2」岩宿遺跡の発掘
1949 年、切通しの土手で、わが国ではじめて旧石器時代の遺物が発掘された。
明治大学考古学博物館
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
日本史誕生:22~24頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
《岩宿発掘―旧石器の発見》
桐生市の西南約四キロにどのところに両毛線の岩宿駅がある。
その駅の西北にある丘の鞍部に切通しの道が走っているが、
その道の両側には赤土の断面が露出していた。
一般に関東ロームとよばれるこの赤土の層の中から、
黒躍石でできた鋭い石片を一九四六(昭和二一)年以来いくつも発見し、
それが石器ではないかと考えたのは、
行商で生計を立てながら考古学の研究をつづけていた無名の一青年、
相沢忠洋氏であった。
一九四九年の夏、彼は槍の先と思われるみごとな石器を同じ地層の中から発見した。
彼は、それらの資料をもって、
当時はまだ新進の考古学者であった氏に出逢うのである。
芹沢氏は後に日本の旧石器文化研究の第一人者になる人である。
だが、そのころは、考古学者も地質学者も、
ローム層の中から石器が出土するなどということは
だれ一人として考えていなかった時代である。
したがって、相沢青年の持参した一見して旧石器とわかる資料を見せられた
芹沢氏は「眼からウロコが落ちた」ような思いだったという。
芹沢氏はさっそく、当時、明治大学の講師で登呂遺跡の発掘を指揮していた
杉原荘介氏に連絡をとる。
そうしてその年の九月11 日には杉原、芹沢、相沢の各氏に
岡本勇氏を加えた四人が岩宿遺跡へおもむき、その試掘にとりかかったのである。
当時、まだ若い学生であった岡本勇氏は、そのときの感動を次のように書き残している。
「道路を作るために切崩された崖の両側には地層の断面がみられる。
相沢さんによれば断面の下端のローム層から遺物が出るらしい。
ただちに発掘が開始された。胸は高なり、腕はふるえた。
だが意図する石片すらもなかなかでてこなかった。
しかし、午後になってようやく相当数の石片が発見され、大いに気をよくした。
これらは明らかに人工的である。
何もかも忘れて発掘をつづけるわれわれは、ふと冷たいものを肌に感じた。
「この雨がなんだ」シャベルは深くさらに深く壁の中にめりこんでいく。
ルトウシエ(整形加工)を有し、しかも形態の判然とした石器を探したい。
それを発見することによって、旧石器たることは何人によっても確認されるであろう。
いつ雨が止んだかは知らたかった。時計は四時三〇分を示していた。
「五時までやろう、あと三〇分分だ」杉原先生はいった。
ラストへビー、緊張の度はさらにひきしまり、ふるうシャベルの音は高かった。
突然、先生のシャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。
(中略)取りあげた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、
何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。
時まさに四時五〇分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変っていた。
今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、
もはや何人も疑わないであろう。もう何も語ることはない。すべては喜びであった」。
(岡本勇、一九五八年)
「写真2」岩宿遺跡の発掘
1949 年、切通しの土手で、わが国ではじめて旧石器時代の遺物が発掘された。
明治大学考古学博物館
《参考》
【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
2011年9月9日金曜日
旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:21~17頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
「写真」槍先に使われた尖頭器
北海道湧別遺跡出土
北海道家庭学校
日本列島において、人類の生活がはじまったのは、いったいいつごろのことだろうか。
この問いに答えようと、明治時代以後、N・G・マンロー氏をはじめ
喜田貞吉氏、
大山柏氏、
直良信夫氏など
数多くの研究者がさまざまな努力を傾けてきた。
それにもかかわらず、日本列島における人類の生活の痕跡が、
確かな証拠で示せるのは、縄文時代までだと長いあいだ考えられてきた。
私も学生時代に
「日本列島では縄文時代より以前には人間の歴史はない」
と教えられたことを記憶している。
日本列島において、縄文時代より以前の時期、
地質学の分類でいえば更新世(表1 参照)の時期に、
人間の営みのあったことがはじめて明らかにされたのは
一九四九(昭和二四)年の岩宿における
「旧石器の発見」であったことはよく知られている。
「写真1」岩宿遺跡の遠景と発見された尖頭器
中央の低い部分が、旧石器の発掘調査の行われた切通し。
1949 年に相沢氏が発見し、旧石器発見の端緒となった尖頭器(長さ7cm )。
明治大学考古学博物館。
石器は相沢忠洋記念館。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
日本史誕生:21~17頁
第1章 日本列島の旧石器時代
1 旧石器文化の探求―縄文以前にさかのぼる
「写真」槍先に使われた尖頭器
北海道湧別遺跡出土
北海道家庭学校
日本列島において、人類の生活がはじまったのは、いったいいつごろのことだろうか。
この問いに答えようと、明治時代以後、N・G・マンロー氏をはじめ
喜田貞吉氏、
大山柏氏、
直良信夫氏など
数多くの研究者がさまざまな努力を傾けてきた。
それにもかかわらず、日本列島における人類の生活の痕跡が、
確かな証拠で示せるのは、縄文時代までだと長いあいだ考えられてきた。
私も学生時代に
「日本列島では縄文時代より以前には人間の歴史はない」
と教えられたことを記憶している。
日本列島において、縄文時代より以前の時期、
地質学の分類でいえば更新世(表1 参照)の時期に、
人間の営みのあったことがはじめて明らかにされたのは
一九四九(昭和二四)年の岩宿における
「旧石器の発見」であったことはよく知られている。
「写真1」岩宿遺跡の遠景と発見された尖頭器
中央の低い部分が、旧石器の発掘調査の行われた切通し。
1949 年に相沢氏が発見し、旧石器発見の端緒となった尖頭器(長さ7cm )。
明治大学考古学博物館。
石器は相沢忠洋記念館。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
2011年9月8日木曜日
基層文化の探求
出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社刊
日本史誕生:18~20頁
はじめに
『日本史誕生』を考える―現在と過去、アジアと日本―
《基層文化の探求》
つまり、現在、
われわれが「日本的」と考えている文化の特色のなかでかなり多くのものが、
近世あるいは中世に起源するものであることは間違いない。
しかし、その「日本的」と考えられている文化的特色の基礎には、
有史以前に遡る古い時代から脈々と伝えられてきた、
素朴で基木的な文化の伝統が存するわけである。
私は伝統的な日本文化の基礎を構成するこのような文化のことを、
《基層文化》とよぶことにしたい。
さきほどの例についていえば、
神社を中心とする「日本的」な祭りや行事の背後に息づいてきた
固有のカミ信仰はその一つであり、
歌舞伎や能を生み出すもとになった古代以来の民俗芸能の伝統も
基層文化の一部と考えられる。
また日本の民家の高床やハンギング・ウォールの構造、
あるいは稲作とその食事文化の伝統(ナレズシもその一部ということができる)、
さらには現代の日本語のもとになった上代日本語やその基礎になった
倭人の言語や縄文語なども、
日本の基層文化のきわめて重要な部分を構成するものということができる。
この本の中で、私がこれからとりあげようとするのは、
このような日本の基層文化とそれを構成するさまざまの要素が、
いつ、どのようにして形成されたかという問題であり、
その基層文化の形成過程についてのくわしい分析である。
その中で「日本史誕生」の具体的なプロセスが描き出せるものと私は考えている。
ところで、わが国における最近の考古学や人類学の調査・研究の発展は、
大へん著しく、次々に新しい資料が発見され、新しい学説の提示が行われている。
吉野ケ里遺跡や藤ノ木古墳などのようにジャーナリズムにもてはやされたもののほかにも、
学術的に貴重な発見やすばらしい研究がたくさんある。
その中にはコンピューターや電子顕微鏡など最新の機器類を
用いた自然科学的な分析により、
新しい事実が発見された例も少なくない。
本書では、このような最新の研究の成果をできるだけとりいれ、
新しい研究の動向を紹介しながら、日本における基層文化の形成のプロセスを、
具体的に追求してゆくことにしたい。
この場合、前にも述べたように、
歴史の復元を行う際の私の視点は、
常に民族学者のそれである。
日本列島で展開された基層文化の形成のドラマを、
私は常にアジア的世界の中で位置づけ、
アジア的世界の民族文化形成史の中で、その特色を考えたいと思っている。
そうすることによって国際的・アジア的視野からみた
ユニークな「日本史誕生」のドラマが描けるものと信じているのである。
以上で、私が描こうとする「日本史誕生」の大きな枠組みについてお話しすることができた。
これからいよいよ本文で、そのドラマを展開させるわけだが、
ここで本巻でとり扱う時代の範囲をいちおう示しておくことにしよう。
本巻では日本列島で発見されている最古の旧石器文化から筆を起こし、
縄文時代をへて弥生時代のはじめごろ、稲作文化が日本列島に伝来し、
それが展開したところで筆をおくことになっている。
国家の編成原理が日本列島にもちこまれ、
新しい社会と文化が形成されはじめたところで、
第二巻にバトン・タッチしたいと田心っている。
当然、第一巻と第二巻の間には一部重なり合うところがでてくると思うが、
そうした二つの巻の間での重複を少しずっ重ね合わせながら、
この『集英社版日本の歴史』
全二十一巻のストーリーが展開してゆくものと思われるのである。
「写真」鹿角製のクマ
北海道有珠10号遺跡出土
札幌医科大学解剖学第2講座
「写真」ヤコウガイのスプーン
沖縄県清水貝塚出土
具志用村教育委員会
日本列島の北と南には基層文化の特色がよく残っている。
それゆえ、われわれは北と南の文化に深い思いを寄せるのである。
写真は鹿角の先端に彫り出されたみごとな熊の像と
幻想的な光を放つ夜光貝でつくられた美しいスプーン。
それぞれ北の狩猟文化、南の漁撈文化を象徴するすばらしい作品である。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
「歴史学講座『創世』うらわ塾」
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
日本史誕生:18~20頁
はじめに
『日本史誕生』を考える―現在と過去、アジアと日本―
《基層文化の探求》
つまり、現在、
われわれが「日本的」と考えている文化の特色のなかでかなり多くのものが、
近世あるいは中世に起源するものであることは間違いない。
しかし、その「日本的」と考えられている文化的特色の基礎には、
有史以前に遡る古い時代から脈々と伝えられてきた、
素朴で基木的な文化の伝統が存するわけである。
私は伝統的な日本文化の基礎を構成するこのような文化のことを、
《基層文化》とよぶことにしたい。
さきほどの例についていえば、
神社を中心とする「日本的」な祭りや行事の背後に息づいてきた
固有のカミ信仰はその一つであり、
歌舞伎や能を生み出すもとになった古代以来の民俗芸能の伝統も
基層文化の一部と考えられる。
また日本の民家の高床やハンギング・ウォールの構造、
あるいは稲作とその食事文化の伝統(ナレズシもその一部ということができる)、
さらには現代の日本語のもとになった上代日本語やその基礎になった
倭人の言語や縄文語なども、
日本の基層文化のきわめて重要な部分を構成するものということができる。
この本の中で、私がこれからとりあげようとするのは、
このような日本の基層文化とそれを構成するさまざまの要素が、
いつ、どのようにして形成されたかという問題であり、
その基層文化の形成過程についてのくわしい分析である。
その中で「日本史誕生」の具体的なプロセスが描き出せるものと私は考えている。
ところで、わが国における最近の考古学や人類学の調査・研究の発展は、
大へん著しく、次々に新しい資料が発見され、新しい学説の提示が行われている。
吉野ケ里遺跡や藤ノ木古墳などのようにジャーナリズムにもてはやされたもののほかにも、
学術的に貴重な発見やすばらしい研究がたくさんある。
その中にはコンピューターや電子顕微鏡など最新の機器類を
用いた自然科学的な分析により、
新しい事実が発見された例も少なくない。
本書では、このような最新の研究の成果をできるだけとりいれ、
新しい研究の動向を紹介しながら、日本における基層文化の形成のプロセスを、
具体的に追求してゆくことにしたい。
この場合、前にも述べたように、
歴史の復元を行う際の私の視点は、
常に民族学者のそれである。
日本列島で展開された基層文化の形成のドラマを、
私は常にアジア的世界の中で位置づけ、
アジア的世界の民族文化形成史の中で、その特色を考えたいと思っている。
そうすることによって国際的・アジア的視野からみた
ユニークな「日本史誕生」のドラマが描けるものと信じているのである。
以上で、私が描こうとする「日本史誕生」の大きな枠組みについてお話しすることができた。
これからいよいよ本文で、そのドラマを展開させるわけだが、
ここで本巻でとり扱う時代の範囲をいちおう示しておくことにしよう。
本巻では日本列島で発見されている最古の旧石器文化から筆を起こし、
縄文時代をへて弥生時代のはじめごろ、稲作文化が日本列島に伝来し、
それが展開したところで筆をおくことになっている。
国家の編成原理が日本列島にもちこまれ、
新しい社会と文化が形成されはじめたところで、
第二巻にバトン・タッチしたいと田心っている。
当然、第一巻と第二巻の間には一部重なり合うところがでてくると思うが、
そうした二つの巻の間での重複を少しずっ重ね合わせながら、
この『集英社版日本の歴史』
全二十一巻のストーリーが展開してゆくものと思われるのである。
「写真」鹿角製のクマ
北海道有珠10号遺跡出土
札幌医科大学解剖学第2講座
「写真」ヤコウガイのスプーン
沖縄県清水貝塚出土
具志用村教育委員会
日本列島の北と南には基層文化の特色がよく残っている。
それゆえ、われわれは北と南の文化に深い思いを寄せるのである。
写真は鹿角の先端に彫り出されたみごとな熊の像と
幻想的な光を放つ夜光貝でつくられた美しいスプーン。
それぞれ北の狩猟文化、南の漁撈文化を象徴するすばらしい作品である。
『参考ブログ』
「歴史徒然」
「ウワイト(倭人)ウバイド」
「ネット歴史塾」
「古代史の画像」
「ヨハネの黙示録とノストラダムスの大予言」
「オリエント歴史回廊(遷都)」
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