2011年9月27日火曜日

細石刃文化の地域性

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《細石刃文化の地域性

 しかし、関東地方や中部地方南部より西の西日本の地域には、

 前にも述べたように、クサビ形細石核ではなく、

 円錐形または角柱状の細石核から細石刃をつくる文化がひろく分布していた(図11)。

 そこでは、さきの矢出川遺跡の例にみられたように、ナイフ形石器を使う

 伝統がかなり後まで残っていたが、彫器(荒屋型を含め)の使用はほにとんどみられず、

 石器の組み合わせが比較的単純だという特色がみとめられる。

 また、石器のつくり方などにも、

 前代のナイフ形石器文化の伝統をうけついだと思われる点が少なくないという。

 このような事実にもとづいて、

 岡山大学の稲田孝司氏は

 「関東地方以西の旧石器時代人は、細石刃をとりつける新式槍の着想はうけいれたけれども、

  細石刃の製法や石器の種類のとり合わせは、

  自分たちの伝統にもとづいて決定したといえよう」と述べている。

 東北日本では新しい細石刃文化が古いナイフ形石器文化にとってかわったのに対し、

 西日本では古い在来の文化が新しい外来の文化をうけいれて、

 在来文化の伝統を変容せしめていったといえそうである。

 では、なぜこのような文化の地域差が生じたのか。

 その理由を解き明かすことはなかなかむずかしい。

 が、先史時代の自然環境の変化と文化の関係を追いつづけてきた

 国際日本文化研究センターの安田喜憲氏は、

 この点について、一つの興味ある仮説を提出している。

 それは次のようなものだ。

 約一万三○○○年前ごろ以降、日本海の海況がしだいに変化し、

 対馬暖流がそのころから間欠的に流入してくるようになる。

 すると海水温が上昇し、

 とくに冬には冷たい季節風の空気と海水との間に温度差が生じ、

 蒸発がさかんになり、雪雲ができて日本海沿岸に多雪をもたらす。

 その結果、日木海沿岸の地方では、

 氷河時代にみられた大陸的な寒冷で乾燥した気候がゆるみ、

 針葉樹の疎林や草原にかわって、ブナやナラの森林が拡大するようになる。

 これに対し、太平洋岸を中心とした関東地方より西の地方では、

 氷河時代以来の寒冷で比較的乾燥した気候がその後もつづき、

 疎林と草原が交錯する景観がみられた。

 前代のナイフ形石器文化の伝統を強く残していた西日本の細石刃文化は、

 このような後期旧石器時代の気候に近い寒冷で乾燥した環境を

 生活の舞台としていたわけである。

 それに対し、クサビ形細石核と荒屋型彫器をもち、

 ナイフ形石器をもたない東日本の細石刃文化は、

 前述のように、シべリアに文化的系譜をもつ新しく渡来した文化だが、

 それは晩氷期になって新たに出現した、湿潤で雪が多く、

 ブナやナラの森林のひろがる環境に適応したものだというのである。

 この新しい文化が、具体的にどのように新しい環境に適応したか、

 安田氏はくわしくは述べていない。

 しかし、森林地帯における漁労活動や木の実(堅果類)の採集活動などが、

 大型哺乳類の狩猟にかわって、

 生業の中心になったことが重要ではないかと指摘している。

 この視点は大へん重要なポイントである。

 約一万三○○〇年前ごろの晩氷期以後、著しく変化してきた自然環境の中で、

 人々の生活様式もそれに応じて大きく変化したはずである。

 そのプロセスの中から、

 やがて旧石器時代から縄文時代への文化の変遷や交替が生まれてきたものと私も考えている。

 「縄文文化の誕生」という日本の歴史の中で、きわめて画期的な事件が、

 この晩氷期の気候変化への対応の中から徐々 に進行したものとみることができるのである。

 いったいその画期的な事件は、

 どのような内容をもって進行したのだろうか。

 縄文文化の誕生劇の進行を、われわれは改めて次章で追ってみることにしよう。

 《参考》

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2011年9月26日月曜日

シベリアからきた文化

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《シベリアからきた文化

 図13 は札幌大学の木村英明氏の

 北海道の旧石器時代の石器の組み合わせについての資料を、

 わかりやすく改めたものである。

 北海道では三角山(千歳市)、嶋木(上士幌町)、樽岸(後志)など・

 細石器を伴わない古いマンモス・ハンターの遺跡もあるが、

 図をみてもわかるように、

 北海道の旧石器時代の遺跡の大部分(四分の三余)は細石刃を出土するものである。

 しかも、その細石刃文化の遺跡では、

 石刃や掻器、削器などの一般的な狩猟用具や生活用具のほかに、

 荒屋型の彫器が細石刃と一緒に出土する比率が大へん高い(約八〇バーセント)。

 細石刃は、木や骨や角の軸に細い溝を刻み、

 そこに埋め込んで使うことは前にも説明したとおりだが、

 彫器はその溝を刻むための工具として用いられたに違いない。

 さらに細石刃をはがしとる細石核については、いくつかの類型があるようだが、

 北海道で出土する細石核のにとんどすべては、

 クサビ形細石核として大きくまとめることができるという(図12)。

 つまり、北海道の細石刃文化は、

 クサビ形細石核を主体として荒屋型の彫器がそれに伴うという点に

 顕著な特色がみとめられるのである。

 しかも、この細石刃文化は、

 一万五○○○~一万四○○○年既ど前にシベリアから北海道にもたらされ、

 いっきにひろがったと想定されている。

 その理由は、この種の細石刃文化は、古い時代にシベリアで生まれ、

 やがて東方や南方に展開したと考えられているためである。

 シべリア考古学にくわしい加藤晋平氏によると、

 クサビ形細石核を用いる細石刃文化は、

 ユーラシア大陸の中でも

 シベリアから東アジア(モンゴル、中国北部、朝鮮半島、日本など)にかけての地域で

 とくに発達したものだという。

 しかも、日本列島のクサビ形細石核と関連をもつと考えられる細石刃文化には、

 大別して、

 シベリアのバイカル湖を中心としたグループ、

 華北の黄河文化セン夕ーを中心としたグループ、

 そして華南の西樵山を中心とL たグループの三つがある。

 このうち黄河グループと西樵山グループの細石刃文化は、

 後に述べるように、

 北部九州や西日本の細石刃文化と何らかの関係を有することは確かなようだが、

 日本列島に展開した細石刃文化の源流として、

 もっとも重要だと考えられるのは第一のバイカル湖グループのようである。

 なかでもクサビ形細石核と

 荒屋型彫器(シべりアでは同種の彫器を

 「ヴェルホレンスク型彫器」とよんでいる)の両者が、

 つねにセットになっているといらユニークな細石刃文化は、

 バイカル湖周辺に起源したものと推定されている。

 最近のソ連の考古学者たちのくわしい研究によると、一二万~二万年前ごろに、

 この文化はバイカル湖辺に出現したが、その後、東方や南方へひろがった。

 その中にはべーリンゲ崩映をこえてアラスカへ向かったものもあるが、

 東へ向かったものの一部はサハリンをへて北海道にまで達したと推定されている。

 前ページの図14 は、その関係をわかりやすく示したものである。

 いずれにしても、北海道にまで達したこのクサビ形細石核に荒屋型彫器を伴う文化は、

 北海道からさらに津軽海峡をこえて東北日本にひろがり、

 少なくとも一万三〇○○年前ごろまでには新潟県の荒屋遺跡のあたり、

 つまり中部地方北部にまで達したことは臣ぼ間違いない。

 しかも、この細石刃文化の影響は大へん強かったようで、

 東北日本では、それ以前のナイフ形石器文化の伝統が消滅してしまっている。

 そこでは新しい細石刃文化が、古いナイフ形石器文化にとってかわったと考えてもよいようである。

 なお、この種のシベリアからきた細石刃文化の痕跡は、最近の情報によると、

 関東地方の一部やさらに西方の岡山県北部の

 中国山地(たとえば上斎原村恩原遺跡)でも発見されている。

 「図13」北海道の旧石器時代の石器の組台せ

  資料は「北海道のおもな先土器時代の過跡にみられる石器の組合せ」

  (木村英明、1985による。)

  もとの資科は遺跡ごとに石器の組合せを示しているが全体に集十して図化した。

 「図14」細石刃文化の拡散と伝播

 (加藤晋平1986 により改変)

 《参考》

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2011年9月25日日曜日

日本における細石刃文化の発見

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《日本における細石刃文化の発見

 一九五三(昭和二八)年も終わりに近い一二月二八日、

 長野県の野辺山高原の一角で、

 吹雪をついて三人の考古学者が寒さと闘いながら発掘を行っていた。

 その中の一人、

 芹沢長介氏は身てついた土の中から青い半透明の石の肌をもつ

 みごとな細石核を掘り出すのに成功した。

 それは日本における細石器の最初の発見である。

 そのときの感動とそれに至る経緯は、

 八ヶ岳の南麓の野辺山高原に位置するこの矢出川遺跡は、

 その後の調査によって、性格の異なる二つの遺跡から成ることがわかった。

 安田喜憲氏のくわしい花粉分析の研究がある。

 それによると、氷期にひろく分布していた

 トウヒ、ハリモミ、シラビソ、コメツガ、チョウセンゴヨウなどの

 亜寒帯針葉樹が少なくなり、

 かわって台地上にはハシバミやカンバ類の疎林とヨモギ類、

 イネ科の草本を中心とする乾いた草原がひろがり、

 矢出川沿いにはイヌコリヤナギ、ハルニレ、ハンノキなどの湿地林があり、

 その周辺には湿原が発達していたという。

 ハシバミの実が豊かにみのり、草原と湿地が交錯する台地とその周辺には、

 シカやイノシシが数多く生息していたと思われる。

 当時、気温は現在より三~五度ほど低かったと想定されるが、

 細石刃文化をもつ人たちが狩猟・採集の生活を営むには、

 この地の自然はなかなか適したものだったと考えられる。

 芹沢氏の『日本旧石器時代』(岩波新書)の中にくわしく語られている。

 その一つは、黒曜石をおもな石材とした数多くの細石刃と細石核が出土するほか、

 少量のナイフ形石器や掻器を出土する細石器時代の遺跡である。

 他の一つは、それ以前のナイフ形石器と槍先形尖頭器を主体とし、

 細石器をほとんど出土しない遺跡である。

 また、問題の細石器が出土する一万三○○○年~一万年前のこの付近の環境については、

 安田喜憲氏のくわしい花粉分析の研究がある。

 それによると、氷期にひろく分布していた

 トウヒ、ハリモミ、シラビソ、コメツガ、チョウセンゴヨウなどの

 亜寒帯針葉樹が少なくなり、

 かわって台地上にはハシバミやカンバ類の疎林とヨモギ類、

 イネ科の草本を中心とする乾いた草原がひろがり、

 矢出川沿いにはイヌコリヤナギ、ハルニレ、ハンノキなどの湿地林があり、

 その周辺には湿原が発達していたという。

 ハシバミの実が豊かにみのり、草原と湿地が交錯する台地とその周辺には、

 シカやイノシシが数多く生息していたと思われる。

 当時、気温は現在より三~五度ほど低かったと想定されるが、

 細石刃文化をもつ人たちが狩猟・採集の生活を営むには、

 この地の自然はなかなか適したものだったと考えられる。

 ところで、矢出川遺跡で細石器が発見された四年後の一九五七年秋、

 新潟県の荒屋遺跡でも細石器が数多く出土することがわかり、

 翌五八年の春に芹沢長介氏らにより発掘調査が行われた。

 この荒屋遺跡の出土遺物は、

 細石刃六七六、クサビ形細石核二四、荒屋型彫器四○一はじめ、

 剥片や石屑多数を含め総計二○○○点余に達した。

 遺物と同じ地層から出土した木炭片の14C年代は13,200±350 年前だったという。

 この遺跡は、信濃川と魚野川の合流点に近い段丘上に位置し、

 いまも非常に雪深いところだが、

 この荒屋遺跡で発見された細石器文化の内容は、

 矢出川遺跡のそれと大へん異なることが注目された。

 両遺跡とも細石刃を主体とすることは同じだが、荒屋遺跡の場合には、

 石器の組み合わせがより豊富で、

 荒屋型とよばれる石器の周縁部を細かく叩いて調整を加えた

 特殊な彫器が四○一点も出土している。

 それに対し、矢出川遺跡では彫器はほとんどなく、

 そのかわりに荒屋では出上しないナイフ形石器が出土している。

 また、細石刃をはがしとるための原石に当たる細石核についてみても、

 荒屋遺跡のそれはやや大型のクサビ形(舟底形ともいう)細石核が

 特徴的であるのに対し、矢出川遺跡では粗割りの礫(母岩)を素材とした

 円錐形または角柱状の小型の細石核が用いられていた。

 このように二つの遺跡の示す文化は、同じ石刃(器)文化でありながら、

 石材や石器の組み合わせ、さらには細石刃技法などの点でも、

 まったく相違する異なった文化であることが明らかになった。

 しかも、その後の調査によると、

 矢出川型の円錐形または角柱状の細石核をもっ細石刃文化は、

 関東地方、中部地方南部から近畿・中国・四国地方にひろく分布する。

 それに対し、荒屋型のクサピ形細石核をもつ石器群は、中部地方の北半から東北地方、

 北海道地方にひろく分布することが明らかになった(図11)。

 なかでも北海道地方においては、

 このクサビ形細石核をもっ細石刃文化がよく発達していたことがわかってきた。

 「写真24」矢出川遺跡

  遠くに八ケ岳をのぞむ、海抜1300 -1400 メートルの矢出川をとり囲む段丘上に、

  この遺跡はいくつかのグループに分かれて立地している。

  安田喜憲氏提供。

 「図11」細石刃文化の東と西
  晩氷期の日本列島では、東日本にクサビ形細石核に荒屋型彫器を伴う文化が、

  西日本には円錐形または角柱状の細石核をもち、

  ナイフ形石器の伝統を残す文化が分布していた。

 (小田静夫 1979 をもとに一部改変)

 「写真25」

  A クサビ形細石核石器

    新潟県荒尾遺跡出土。

    細石刃クサビ形細石核および荒屋型彫器。

  B 半円錐形細石核石器

    長野県矢出川遺跡出土。

    円錐形細石核と細石刃。

    明治夫学考古博物館。

 「図12」細石核の類型

  図13によると、石刃や掻器とともに細石刃、細石核や荒屋型彫器の出土鰍が多く、

  図12 によれば、細石核の中ではクサビ形のそれが圧倒的に多い。

 「図13」北海道の旧石器時代の石器の組台せ

  資料は「北海道のおもな先土器時代の過跡にみられる石器の組合せ」

  (木村英明、1985による。)

  もとの資科は遺跡ごとに石器の組合せを示しているが全体に集十して図化した。

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2011年9月24日土曜日

細石刃文化とは

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    4 細石刃文化の展開

 《細石刃文化とは

 ナイフ形石器によって特色づけられた旧石器時代のⅡ期は、前にも述べたように、

 一万三〇〇〇年前ごろに終わる。

 それ以後は、ナイフ形石器群にかわって、

 細石刃石器群が日本列島にひろく分布するようになる。

 細石刃は大へん小さな石刃で、それ一つでは道具としては役立たない。

 骨や角や木の軸に細い溝を彫り、

 そこに数本の細石刃を埋め込んで樹脂やアスファルトなどで固定させ、

 槍や銛、ナイフとして使うのである(次べージのコラム参照)。

 このような利器を植刃器というが、ちょうどカミソリの刃を埋め込んだのと同じで、

 溝からほんの少し顔を出した細石刃の鋭い刃先が、

 獲物の固い皮を切り裂き、体内に深く突き刺さるようにできている。

 写真23 は、シべリアのココレヴォⅠ遣跡の出土品で、大型の野牛の肩甲骨に、

 細石刃を植え込んだシカの角製の植刃器(槍)の先端が突き刺さったまま発見された。

 突き刺さった槍先の角度から、

 槍は一・五~一・六メートルの高さからほぼ水平に打ち込まれたとみられている。

 狩人は至近距離から植刃器を投げ槍として使ったらしい。

 狩人たちは、狩りの終わったあと、落ちこぼれた細石刃を新しいもので補充し、

 また次の狩猟に使ったことだろう。

 この例でもわかるように、鋭い細石刃をいくつも植え込んだ槍は大へん高い殺傷力をもち、

 しかも、細石刃を植えかえることによって、槍はくり返し使用することができた。

 このように、細石刃は組み合わせて使うと

 きわめて高い機能を発揮する道具の部品としてつくり出されたものといえる。

 部品だから同一規格の鋭い細石刃が大量に必要だ。

 それを得るための技術が細石刃技法と称されるもので、

 母岩を適当な形にととのえて必要な石核をつくり出し、

 そこから細石刃を連続的にはぎとるのである(コラム参照)。

 幅数ミリに満たない小さくて鋭い細石刃を連続してつくり出し、

 それを組み合わせて使用する技術というのは、長い旧石器時代の最後の段階になって、

 人類が生み出した最高の石器の製作・使用技術だということができる。

 この種の細石刃技術をもつ石器群は、

 旧石器時代の終末期になって旧大陸の各地域にあらわれ、

 やがてその全域にひろがった。

 しかも注目すべきことは、この細石刃文化の中から、

 人類の革新的な文化が生第み出されてきたことである。

 たとえば中近東地域における農耕・牧畜文化は

 ナトゥフ文化で代表されるような細石刃(器)文化の中から生まれたし、

 華北の農耕文化も細石刃文化をベースにして誕生したといえる。

 農耕・牧畜の発生しなかった北ユーラシアにおいても、

 後に説明するように、土器がこの文化の中から発生してきているのである。

 このように細石刃文化は新しいタイプの文化を生み出す

 大きな潜在力を有していたようである。

 このような事実をふまえ、東アジアの旧石器文化にくわしい

 加藤晋平氏は

 「日本独特の縄文土器文化の発生は、やはり、この細石刃文化のなかにある。

  私たちが現在有している日本の基層文化は、

  今から一万四○○○年前ち一万三○○○年前に

  日本列島をおおった細石刃文化のなかに求めることができる」

  (加藤晋平、一九八六年)と述べている。

 日本文化の形成の問題を考えるうえで、

 この加藤氏の指摘はなかなか意味深いものだということができる。

 では、日本列島では、この種の細石刃(器)文化は、

 具体的にどのような特色をもって存在し、

 その文化はどこから伝来したと考えられるのだろうか。

 「コラム」細石刃のつくり方

  1 ブランク(母型)

    原石を割って、木ノ葉形の石器(ブランク、母型)を用意する。

  2 スボール

    ブランクの剥離をくり返すいポールをとる)。

  3 クサビ型細石核:細石刃

    半月状の石核(細石核)を押圧剥離

    (先の尖った鹿角などを強く押しつけて石片をはぐ方法)で、

    連続的に細石刃をつくる。

    石核の断面がクサビ形細石核とよばれる。(木村英明 1985による)

 「図」細石刃のつくり方

  ① 原石から母型(ブランク)をはがす。

  ② ブランクをたたいて形をととのえる。

  ③ スポールをはぎとり、細石核をつくる。

  ④ 細石核から細石刃を押圧剥離ではがす。

  ⑤ ブき上がった長さ20 ミリほどの細石刃。

   岩本圭輔氏作製

 「図」装着された紐石刃

  細石刃を骨や木に刻まれた溝にはめ込んで、おもに投げ槍として使用した。

  デンマーク出土。鈴木忠司氏提供。

 「写真23」野牛の肩甲骨に突きささった槍先

  槍先(植刃尖頭器)は、長さ約11cm で、片側に幅1 -2 mm の溝が刻まれ、

  細石刃が植え込まれていた。

 ソ連・ココレヴォⅠ遺跡(1.4-1.3 万年前ごろ)出土。木村英明氏提供。

 《参考》
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2011年9月23日金曜日

はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《はさみ山遺跡と旧石器時代の住居

 最後に、当時の住居については、最近、いくつかのよい資料が報告されるようになった。

 たとえば北海道の中本遺跡長野県の駒形遺跡などでは、

 浅い堅穴状の遺構の中に炉跡などが発見されている。

 だが、ここでは一九八六(昭和六一)年に発見された大阪府のはさみ山遺跡の例によって、

 当時の住居の実態をみてみることにしよう。

 はびきの大阪の河内平野の南縁を画する羽曳野丘陵の北側に低い丘がのびている。

 その一角に、旧石器時代の住居祉が発見された。

 はさみ山遺跡とよばれるこの遺跡は、

 近鉄バファローズの名捕手だった梨田昌孝氏の住宅建設予定地に当たり、

 住居域はその南半分が発掘された。

 全体を復元してみると、東西約六メートル、南北五メートルほどの楕円形をなし、

 深さ約三〇センチほどの浅い竪穴住居だったらしい。

 一・○~一・七メートルの間隔で七個の柱穴が発掘されたが、入り口の柱らしい二本を除き、

 いずれも住居の内側にゆるく傾斜し、総計一三~一四本の柱で上屋を支えていたと思われる。

 住居内の床面には灰黄褐色の砂が厚さ一○~二○センチほど敷きつめられており、

 住居の周囲には幅五○ ンチほどの溝がめぐらされていた。

 屋内に炉跡は見つからなかったが、

 住居の西に接して長径一・五メートル、深さ一三センチにどの掘り込みがある。

 埋土の表面に熱をうけて破砕されたサヌカイト礫が出土したので、炉跡とも考えられるが、

 住居の付属施設の可能性もあるという。

 また、この遺跡からは国府型ナイフ形石器一三点、小型ナイフ形石器二点、

 翼状剥片一二点、同石核四点を含む二三八点の石器が出土したが、

 その大部分は住居址内の敷砂の上面や住居の周辺二メートルあまりの範囲に

 集中していたという。

 つまり、この住居が生活の拠点になっていたことがよくわかる。

 このような状況からみて、はさみ山遺跡の住居は、

 ヴユルム氷期最盛期ごろの典型的な住居の一つと考えられるが、

 それは溝をめぐらし、砂を敷き、かなり丹念につくられたもので、

 ひと冬をここで越冬するための住居ではなかったかと私は想像している。

 上屋を何でつくったかは不明だが、

 発掘された七個の太い柱穴のあいだに

 径一○~一八センチほどの浅い掘り込みがいくつもみとめられたので、

 補助的な多数の垂木材を用い、

 その上に草や芝土などをのせた保温性の高い住居であったと考えておくことにしよう。

 ニヴヒやアリュートなどの民族例を参考にして考えると、

 この種の土をのせた堅穴式の「冬の家」

 (ニヴヒの竪穴住居については4 章・図43 、および5 章・図118 参照)のほか、

 皮製テントや簡単な高床の「夏の家」が

 ナイフ形石器の時代にも存在した可能性が少なくない。

 さらに、このはさみ山遺跡では、住居堆の東側四メートルほどのところに、

 南北にのびる幅一○メートルほどの浅い谷があり、

 その東側に墓と思われる穴(土墳・土坑)が発見された。

 東西二・七メートル、南北一・六メートル、深さ五○センチほどの舟底形の穴で、

 その底面の東端に長さ二六センチと二一センチの

 大きなサヌカイトの石核が二つ置いてあった。

 いずれも石器をつくるための剥離作業を行っている途中の石核で、

 どちらも原石の表面を下にして置かれていたというから、いかにも作為的で副葬品らしい。

 このはさみ山遺跡では、小さな谷川をはさんで、

 西側には住居が、東側には墓地が営まれたわけである。

 さらに、この谷川に沿い、

 はさみ山遺跡の南には国府型のナイフ形石器などが多数出土したほか、

 少し後の時代の有茎尖頭器も出土した青山遺跡その他があり、

 はさみ山遺跡の北には同じようにナイフ形石器時代の石器や

 有茎尖頭器を出土した西大井遺跡その他がある。

 つまり、はさみ山遺跡の立地する丘陵とその周辺は、

 国府型ナイフ形石器が卓越する時代から有茎尖頭器の時代にかけて、

 旧石器時代人たちが、

 継続的に生活の場として利用していたことがよくわかるのである。

 その当時、この丘陵とその周辺には、チョウセンゴヨウを主とする針葉樹や

 ミズナラ、カバノキ、ハシバミなどの落葉広葉樹の混合林がひろがっていたと思われる。

 また、丘陵の西方には湿原も存在していたらしい。

 おそらくオオツノジカをはじめ、ナウマンゾウ、ニホンムカシジカなどが

 付近に数多く生息し、この一帯は彼らにとって絶好の狩場であり、

 生活の場であったと考えられる。

 さらに、石器の原石としてよく使われるサヌカイトの産地として名高い

 二上山のごく近くに位置していたことも、生活に好都合だったと思われるのである。

 大きなサヌカイトの石核とともに葬られた、はさみ山遺跡の被葬者は、

 このあたりを冬のキャンプ地にしていた村人たちの中の

 顔役の一人であったのかもしれない。

 「写真22」はさみ山遺跡はさみ山遺跡の住居址

  調査が行われたのは遺跡の南半分だけであった。

  図と対比してみると、くわしいことがわかる。

  7カ所の柱穴(凡例参照)は直径14~22cm 、それぞれ5 ~8 cm の深さをもつ。

  手前から2 番目と3 番目咽でP-5 とP-6 ) のあいだが入口だったと思われる。

  大阪府教育委員会。

 「図10」はさみ山遺跡の住居と墓地

  小さな谷をはさんで、住居祉から20m 余り離れたところに墓地(土墳)があり、

  丁重な埋葬が行われたらしい。

  (大阪府教育委員会、1986 による)

 《参考》
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旧石器時代の衣と食を考える

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:51~54頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《旧石器時代の衣と食を考える

 旧石器時代の衣・食・住の特色を、

 具体的に復元できるほどの証拠(遺物)はいまのところにとんど発見されていない。

 だから、「よくわからない」というのが正直なところだが、

 たとえば当時の衣服については、

 いまも極北の地帯に住む狩猟民たちの衣服が復元の参考になる。

 大興安嶺のオロチョンはじめ、

 アラスカのエスキモーや東部シべリアに住むニヴヒ(ギリヤーク族)や

 チュクチなどではノロジカやへラジカ、カリブー(トナカイの一種)や

 アザラシなどのも皮でつくっただぶだぶの防寒服が昔から用いられてきた。

 たとえばエスキモーでは、カリブーの毛皮を主婦が歯で噛んでなめし、

 カリブーの腱からつくった糸を使って伝統的な衣服をつくってきた。

 それには毛を内側にして仕立てたアディギと毛を外側にしたアノガジェの二種類がある。

 本多勝一氏はその調査記録の『極限の民族』の中で、

 「普通は下着もつけずアディギだけを着るが

  (厳寒期と旅行のときなどにはその上にアノガジェを着る)、

  厚い毛皮一枚がフワリと体をおおうだけだから空気の層ができ、

  羽根ぶとんにくるまれたようで温かい」と述べている。

 温かい空気は毛皮製のフードで上の方へ逃げるのを防ぎ、

 ズボンも手袋もカリブーの毛皮でつくる。

 靴は幾重にも毛皮を重ねたものを用いている。

 ところが、従来は旧石器時代の生活を想像した図などには、

 当時の人を半裸か、袖の短い衣服を着て、はだしに描いているものが多い。

 だが、いまから約二万年前のヴユルム氷期最盛期には、

 前にも述べたようん、気温はいまよりも七度ほども低かったとされている。

 真夏の一時期を除くと、氷河時代の厳しい自然の中で生活するためには、

 現代のオロチョンやエスキモーやニヴヒの人たち(写真18 参照)と

 同じようなだぶだぶの長い防寒衣服が必要である。

 それをオオツノジカブーツやへラジカその他の毛皮でつくり、

 ズボンや靴には、ナウマンゾウや野牛、ヒグマなどの毛皮も利用したと考えられる。

 後代のアイヌの衣服も、材料は少し異なるが、やはりだぶだぶの防寒衣であった。

 次に、当時の人のおもな食料は、

 花泉遺跡や野尻湖遺跡のキル・サイトの例によってもわかるように、

 大型獣を中心に中小型獣も含め、その肉と血や内臓や脂肪などであったことはいうまでもない。

 それらの一部は焼き肉や燻製や干し肉にして移動の際の携帯食料にすることもあっただろう

 (78 ページ・写真32 参照)。

 このほか、植物性食料も可能な限り利用していたに違いない。

 アク(毒)抜きの技法は、縄文時代になって完成するものなので、

 当時はアク抜きを必要としない植物が食料の対象となっていたと思われる。

 東北日本の亜寒帯針葉樹林帯やその周辺では

 コケモモ・クロマメノキなどの奨果類やハイマツ・チョウセンゴヨウの実などが、

 西日本の落葉広葉樹林帯や広葉樹と針葉樹との混合林帯では

 チョウセンゴヨウ・ハシバミをはじめ、

 クルミ・クリ・ヒシなどの堅果類やヤマブドウ・サルナシ・キイチゴなどの奨果類、

 ウバユリなどの根茎類が食料として利用されていたと思われる。

 なかでも、その当時、

 本州から北九州にかけてひろく分布していた
 
 チョウセンゴヨウの実は小型のピーナッツほどもあり、

 栄養価も高く、食料として重要性が大きかったと鈴木忠司氏は推定している。

 私もその意見には賛成である。

 北アメリカの大盆地に住むショショニ族

 アンテロープ(ウシ科)やウサギ、イナゴなどを狩猟するほか、

 なかでものサンヨウマツ実が主食料の一つになっている。

 彼らは秋から冬にかけてマツの実が収穫できる範囲に

 二〇~三〇家族が集まって野営する。

 浅い龍の中へ真っ赤なおき火(たき火の残り)と一緒に入れ、

 よく振り動かして妙った後、平たい石の上ですりつぶして粉にし 、

 そのまま食べたり、革袋に入れて蓄えるという。

 また、細かく編んだ龍の内側に松脂などを塗って水を入れ、

 そこへたき火で真っ赤に焼いた石を投げ人れて水を沸騰させ、

 マツの実の粉をねってペースト状にしたものをその中に入れて調理する方法もひろくみられる。

 龍編みの技法は土器製作以前の新大陸西部の原住民のあいだに異常に発達した技術で、

 日本列島の旧石器時代にも、それがひろく存在したとすぐには考えられない。

 むしろ、北アメリカ北西部や北東アジアの亜寒帯林地帯の原住民のあいだには、

 各種の木器類とともにカバノキなどの樹皮を使った

 樹皮製容器が古くから用いられていたことに私は注目したい。

 写真19はアムール川下流域のニヴヒ(ギリャーク族)の樹皮製容器の一例だが、

 樹脂で目張りしたこの種の容器に水を入れ、焼石を投げ入れて沸騰させるほか、

 ニヴヒでは、かつては木器ゃ樹皮製容器に泥を塗りつけて、

 火にかけて鍋のように用いていたという。

 おそらく氷河時代の日本列島でも、

 ニヴヒのそれとよく似た木器や樹皮製容器がひろく用いられていたものと私は考えている。

 野川遺跡をはじめ、ナイフ形石器の時期の遺跡では礫群や配石(置石)とよばれる

 自然石のまとまりが発見されることが少なくない。

 さきに示した図9にも磯群の存在が示されている。

 礫群というのは拳大の焼けた石が数十~一○○個ほど一カ所にまとまったもの。

 配石は子供の頭ほどの石が一~数個据え置かれたもので、

 礫群と異なり焼けた痕跡はない。

 礫群の自然石は六○○度以上の熱をうけた痕跡が明らかで、

 一般にそれは加熱調理施設、配石は調理作業場と考えられている。

 礫群の焼石の中には、黒いタール状の物質が付着しているものがあり、

 中野益男氏がそれを脂肪酸分析した結果によると、

 動物性食品の調理のあとを示すステロールが検出されたという。

 焼石は獣肉などを直接焼くのに用いられたことは確かである。

 しかし、前述の民族例にみられるように、

 焼石はマツの実やその他の木の実類を妙ったり、野生のイモ類を蒸し焼きにしたり、

 あるいは水を入れた木器や樹皮製容器の中へ投げ入れ、

 ものを煮沸するのに用いた可能性が高い。

 獣脂をこのような仕方で煮つめて、

 良質の油脂をとることも行われていたのではないかと私は想像している。

 いずれにしても、ヴユルム氷期の最寒冷期を、

 さまざまな生活技術を開発し、

 生活の知恵を活用して旧石器時代の人たちは生き抜いてきたのである。

 「写真17」へラジカの皮をなめす

  大興安嶺に住むエヴェンキの人たちはトナカイの牧畜のかたわら狩猟も行う。

  獲物のハンダハン(ヘラジカ)の皮は日に乾したあと、皮についた脂肪を削りとり、

  よくもんで柔らかい皮になめす。

  皮なめしは女の仕事である。

  大塚和義氏提供。

 「写真18」オロチョンの伝統的な皮製衣服

  中国東北部に住むオロチョンの人たちは、

  いまも狩猟生活を営み、おもにノロジカやヘラジカの毛皮をなめした。

  だぶだぶの長い皮衣を着ている。

  大塚和義氏提供。

 「写真19」ニヴヒの樹皮製容器

  大正8年に鳥居龍蔵博士が東部シべリアのニヴヒ(ギリヤーク族)の村で収集したもの。

  国立民族学博物館。

 「写真20」チョウセンゴヨウ

  左に示した実のうち上の2個は野川遺跡から出土したもの。

  チョウセンゴヨウは、かつては本州から北九州にひろく分布していた。

  現在は福島県から岐阜県の山地に自生。

  大沢進氏提供。

 「写真21」礫群

  茶色く焼けた焼石のまとまり。鈴木遺跡出土

  焼石は、直接獣肉を焼いたり、容器の中へ投げ入れて水を沸かしたり、

  大きな葉にくるんだ野生のイモ類などとともに土中に埋めて、

  蒸し焼きにしたり、さまざまな加熱調理に用いられた。

  小平市教育委員会。

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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2011年9月21日水曜日

集落の構造と生活のユニット

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:48~50頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《集落の構造と生活のユニット

 ところで、ナイフ形石器を中心にさまざまな石器をつくり、

 それを使っていた日本列島の旧石器時代人たちは、

 具体的にどのようなムラをつくって生活していたのだろうか。

 ナイフ形石器の時代の後半になると、後に紹介するように、

 柱穴をもつ住居址らしいものが見いだされるようになってくるが、

 その数はきわめて少なく、ムラの姿を復元するまでには至っていない。

 だが、日本の考古学者の最近の発掘は精細をきわめており、

 石器と石器をつくったときに出る石屑の分布をすべて記録し、

 それがいくつかのまとまり(ブロック)をもつことを明らかにして、

 ムラの具体的な姿を描き出そうとしている(図8、図9)。

 それだけではない。

 各ブロックで出土した石器や石片をくわしく調べ、

 同じ母岩を打ち割ってつくられた石器や石片を

 すべて寄せ集めてもとの母岩を復元するという、

 大へん丹念な接合作業が行われている(写真16)。

 この種の調査の先駆をなしたのは、

 明治大学の戸沢充則、安蒜政雄氏らが調査した

 埼玉県所沢市の砂川遺跡(14C 年代で約一万三三〇〇年前ごろ)である。

 この遺跡では、Al ・A2 ・A3 、Fl ・F2 ・F3 の六つのブロ?クが見いだされ、

 ナイフ形石器四六、彫器二、使用痕のある剥片一四のほか、

 剥片三二五、砕片三一四を含め、総計七六九点の石器と石片が発掘された。

 図9 はこのうちA ブロック群の石器や石片の分布を模式的に示したものだが、

 中央のA2 ブロックには炉の役割を果たしたと思われる礫石群が存在するとともに、

 石器の数が多いのに対し石屑が比較的少ない。

 おそらくそこには獣皮製の住居などがあり、居住の中心だったと思われる。

 それに対し、Al とA3 、とくにA3 では狭い範囲に石屑が多く、

 おそらくそこでは石器の製作がさかんに行われたものと推定されている。

 しかも、Al 、A2 、A3 の各ブロック間には

 同一の母岩から打ち欠いたと思われる石器や石片が数多く存在し、

 Aブロック群内で石器をつくったり、使ったり、棄てたりしていたようで、

 Aブロック群全体が一つの生活のユニットを形成していたことがわかる。

 戸沢充則氏は、

 「砂川遺跡の例に示されるような、

  三ないし数箇所の近接したブロック群(ユニット)が

  一つのイエであるとすると、

  その程度の面積のイエに起居できる人数は、

  おそらく一○人から一○数名であったろう。

  それは「世帯」とか「家族」といえるような、

  日常的な食料獲得と消費を共同で行う、

  血縁的な単位集団だったとみられる」

 (戸沢充則、一九八四年)と述べている。

 さらに写真16は、

 砂川遺跡のA3 から出土した一○数点の石器や石片を接合した資料だが、

 この接合資料の場合、原石(母岩)の上、下側と外側に当たる石片が

 ここでは見当たらない。

 たぶん原石の上下と外側の部分をはぎとる作業を他の場所で行ったものと思われる。

 また、この資料の右側の空白になっている箇所には、石核が入るべきだが、

 それがこの遺跡では発見されていない。

 おそらく、この場所にある期間居住していた人が、その石核をもって、

 他の場所へ移動したことを示すものとみられるのである。

 他にも同様の例は少なくないという。

 石器の丹念な接合作業は、

 旧石器時代人たちが石器をつくるための原石や石核をもって

 移動生活を営んでいた事実をみごとに証明したものといえる。

 富山県の野沢遺跡(年代はAT 火山灰より少し後の時代)でも、

 石器ブロックの確認や石器の接合作業が丹念に行われた結果、

 ここでも同時に三つの世帯ユニットがあったことが鈴木忠司氏によって復元された。

 同氏によると、各ユニットごとやりの石器組成は表5 に示したとおりで、

 槍のようにして使うナイフ形石器や獲物を解体したりする使用痕のある剥片は、

 基本的な装備として各世帯ユニットに共通している。

 それに対し、木の実や野生のイモ類の調理・加工用具だったと考えられる敵石は、

 2 と3 のユニットにあって1 にはない。

 鈴木氏は植物性食料を採集・調理する成年女性が2 と3 の世帯にはいたが、

 1 にはいなかったと想定している。

 そうともいえるが、2 と3 のユニットのみが住居と炉をもっ居住の単位(世帯)で、

 1 は二つの世帯に付属した獲物の解体などを行う作業場と考えることもできるかもしれない。

 いずれにせよ、石器や石片の分布やその接合関係の詳細な分析によって、

 最近ではナイフ形石器時代のムラや世帯の姿が、

 おぼろげながら浮かび上がってきたようである。

 では、具体的に当時の衣・食・住など、生活の特色はどのようなものだったのだろうか。

 「図8」寺谷遺跡における遺物の分布とブロック区分


  寺谷遺跡では、ナイフ形石器のほか剥片、砕片、石核など約4600 点が出土した。

  図は4600 点の遺物の分布を示したもので、そのまとまり具合から11 のブロックに区分された。

  (鈴木忠司、1980 による)

 「図9」砂川遺跡のAブロック群(ユニット)

  図は発掘区内の石器、石片などの分布を示す。

  ● はナイフ形石器などの完成した石器

  ・は石器を作る際に飛び散った石片(石屑)

  ■ は石核または原石

  その分布状態からA1-A3 の3 つのブロックに分けられるが、

  その各ブロックの間には原石の同じ石器・石片(個体別資料)、

  石が割られる前の状態に接合できるもの(接合資料)が多く共有され、

  各ブロックが互いに密接な関係にあったことがわかる。

  また、中央のA2には礫」群(炉)があり、

  石器の数は多いが、石屑はまばらである。

  おそらくこのA2 が住居の中心の場であったろう。

  それに対してA1 とA3 、とくに後者は狭い範囲に石屑が密に分布し、

  ここでさかんに石器製作が行われたことがわかる。

  このAブロックが生活の一つのユニットをつ<っていた。

  (戸沢充則、1984 による)

 「写真16」石器の接合

  砂川遺跡では769 点の石器と石片の接合から66 個の原石が確認された。

  写真の原石は長さ約15cm 、もとは楕円形だったと思われる。

  明治大学考古学博物館。

 「表5」野沢遺跡におけるユニットごとの石器組成

  (鈴木忠司、1984 による)

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 『参考ブログ』

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2011年9月20日火曜日

ナイフ形石器文化の地域的展開

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:45~47頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《ナイフ形石器文化の地域的展開

 ところで、これらの石器をつくる原材料は、

 どのような石でもよいというわけにはいかない。

 硬くて、しかも細工のしやすい石材を、

 当時の人々はできるだけ身近な河原や崖や丘陵の礫層などの中に求めようとした。

 だが、それでも鋭利な石器をつくるためには、

 黒曜石や珪質頁岩、チャート、 讃岐石(サヌカイト)などの良質の石材が

 強く求められたようである。

 とくに、旧石器時代Ⅱ期の後半以降になると、その傾向が強くなる。

 たとえば武蔵野台地の野川流域の遺跡群では、

 はじめは地元の石材が多く用いられていたが、

 第Ⅵ層(約二万二〇〇〇年前)のころから黒曜石の使用の割合が

 しだいに高くなり(約二〇パーセント)、

 第Ⅲ層(約一万三〇〇〇年前)のころには

 五〇パーセントをこえるに至ったとされている。

 しかも、一九七〇年代以降、理化学的な同定技術の進歩により、

 黒曜石などの原産地が正確に推定できるようになった。

 その分析の結果、野川遺跡では約一万六〇〇〇年前ごろまでは

 箱根産の黒曜石をおもな材料としていたが、

 それ以後は信州の和田峠を原産地とする黒曜石が多く用いられるようになったという。

 武蔵野台地の旧石器時代人が、はるばる信州まで黒曜石を採取に出かけたのか、

 あるいは中継交易により間接的に入手したのかは不明だが、

 当時、すでに二〇〇キロをこえる広域関係圏が成立していたことは間違いない。

 当時の狩人たちは、半径二〇~三〇キロ程度の日常的生活圏と

 それに数倍する広域関係圏を有していたものとみて間違いないであろう。

 ところで、いわゆるナイフ形石器の時代、

 つまり二万年前から一万三〇〇〇年前のころには、

 北海道を除く日本列島では遺跡数が増加し、

 特徴的なナイフ形石器がひろく普及した。

 なかでも東北地方と中部地方北部には

 東山・杉久保型(石刃の基部や先端をわずかに加工したもの)のナイフ形石器が、

 関東地方と中部地方南部にはおもに茂呂型(石刃の両側を加工したもの)のそれが、

 そして近畿地方から瀬戸内地方にかけての西日本には

 国府型(縦長ではなく横長の細歳を素材にしたもの)のナイフ形石器が分布していた(図7 )。

 このことはすでにかなり以前から知られていたが、さらにそれを大きくまとめてみると、

 「石器群の中で掻器あるいは彫器が

 ナイフ形石器と同格に近い位置を占める東北・中部地方北部の文化と、

 ナイフ形石器だけが卓越している関東・中部地方南部以西の文化とに二分されてしまう」

 (稲田孝司、一九八八年)ということができるようである。

 ナイフ形石器文化の後半の時期になって、日本列島においては、

 東は東、西は西というような文化の大きな地域差が形成されてきた。

 おそらく当時の狩人たちの広域関係圏が相互に重なり合い、

 よりひろい共通の文化領域が生み出されたものと思われるのである。

 問題は、このような日本列島に形成された東西二つのナイフ形石器の文化圏が、

 アジア世界の中でどう位置づけられ、日本文化の形成の問題の中で、

 どのような意味をもつかということである。

 だが、残念ながら、このような問題にすぐに答えが用意できるほど、

 資料はととのっていないようである。

 ただし、シベリアや中国など日本周辺地域における石刃石器文化の展開を、

 くわしく跡づけた千葉大学の加藤晋平氏は、その結論として、次のように述べている。

 「東アジアの地域では石刃技術の出現には、北方型と南方型の二つの系統がある。

  北方型(シべリア系―佐々木注)の石刃技術は、

  扇平な石刃石核から石刃を剥がす技術を基盤とし、……

  南方型(華北系―佐々木注)は立方体の石核を利用したものである。

  北海道を除く日本列島では、南方型の石刃技術の出現によって、

  後期旧石器時代が開始された」。

 その後、北海道を除く本州以南の地域には、

 ナイフ形石器を有する石器群がひろがるが、

 AT 火山灰の降下直後の時期には、

 沿海州や朝鮮半島で発見されているのと同じ剥片尖頭器が、

 九州や西日本一帯に流入していることが注目されるようになった。

 「このような事実からすると、(中略)

  日本列島の中にひろがった縦長剥片からつくるナイフ形石器も、

  剥片尖頭器の流入と同様に、華北地域と関連があったと考えられそうである」

 (加藤晋平、一九八八年)というのである。

 日本列島のナイフ形石器のアジアでの位置づけについては、

 現在の知識ではせいぜいこのような程度のこと、

 つまり華北のそれと関係が深いらしいということまでしかいえないようである。

 「図6」黒曜石の産地と運搬経路

 (小野昭 1988により一部改変)

 「図7」ナイフ形石器文化の東と西

  日本列島にけおる東・西文化の対立がこの時期にはじめて現われた。

  それは当時の植生にほぼ対応している。(小田静夫、1986 により一部改変)

 「写真15」ナイフ形石器

  秋田県米ケ森遺跡出土の東山型のナイフ形石器。長さ13 . Zcm。

  協和町教育委員会/至文堂。

  大阪府郡家今城遺跡出土の国府型。長さ53cm。
  
  高槻市教育委員会/至文堂。

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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2011年9月19日月曜日

関東ローム層に歴史をよむ

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:41~44頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    3 ナイフ形石器文化の時代―その生活文化を考える

 《関東ローム層に歴史をよむ

 東京の西郊にひろがる武蔵野台地

 関東ローム層とよばれる特有の赤土の地層で形成されている。

 そのローム層のうちもっとも新しい時代(約三万~一万年前)に

 堆積したのが立川ローム層だが、

 国際基督教大学の敷地内で発見された野川遺跡は、

 この立川ローム層で構成されていた。

 一九七○ (昭和四五)年に行われた本格的な発掘では、

 従来二メートル程度とされていた立川ローム層の厚さが

 四メートルあまりにも達することがわかった。

 私のつとめる国立民族学博物館の同僚小山修三氏は、

 一〇数年前に、小田静夫小林達雄氏らとともにこの野川遺跡の発掘に携わった一人だが、

 「ローム層の上層からは、

  尖頭器やナイフ形石器が出てきたが、

  掘っても掘っても遺物が出てきて大へんでした」

 と当時を語ってくれた。
 
 とにかく、その発掘調査の結果、立川ローム層には、

 図4に示したような一三の自然層と一○の文化層のあることが確認された。

 その中には黒色帯どよばれる黒土層があり、

 その腐植質の14C年代測定

 (生物の体内に少量存在する放射性炭素14Cは、

  生物の死後規則的に減少する。その減少量によって年代を測定する方法)や

 花粉分析

 (遺跡の土中に残留している化石花粉の割合を検定し、

  当時の植生を復元する研究法)などが行われた。

 さらに第Vl層にはガラス質に富む薄い火山灰(テフラ)の層がみとめられた。

 当時、その火山灰は「丹沢パミス(Tn )」とよばれ、

 富士山を給源とする火山灰と考えられていた。

 ところが、その中に含まれる火山ガラスや特殊な鉱物(たとえば斜方輝石)

 などには特別な特徴があることから、

 それを手がかりに、町田洋、新井房夫の両氏がくわしい追跡調査を行った結果、

 この火山灰は現在の鹿児島湾奥部を火口原とする

 姶良カルデラの大噴出に伴うものであることが明らかになった。

 そこで改めて、この火山灰は「姶良Tn 火山灰(AT)」と名づけられたが、

 その分布を追跡すると、西日本から東北地方南部、

 さらに朝鮮半島から日本海の海底にまでおよぶことが明らかになった(図5)。

 また、その中に含まれる有機質の14C年代の測定によって、

 この火山灰(テフラ)の大噴出が

 二万二〇〇〇~二万一〇〇〇年前ごろであったことも確かめられた。

 このような研究の結果、立川ローム層ばかりでなく、

 各地の後期旧石器時代の文化層を相互に比較する場合、

 このAT 層を時間の指示層として利用することができるようになった。

 それによって信頼度の高い年代が得られるようになり、

 正確な編年を行うことが可能になったのである。

 この始良Tn 火山灰層の発見という画期的な研究成果を

 生み出す契機となった野川遺跡では、調査結果を大きくまとめると、

 その文化の発展段階は、掻器(エンドスクレーパー)や礫器を中心に

 石器組成の単純なV 層までの時期(野川①期)、ナイフ形石器が急激にふえ、

 それが利器の中心となった時期(野川②期)、

 大型の両面加工の尖頭器や大型石刃などを中心とする時期

 (野川③期)に区分されることが明らかになった。

 その後、武蔵野台地では西之台、高井戸、鈴木遺跡そのほか多くの遺跡が調査され、

 野川遺跡では発見されなかった細石刃の文化が②と③のあいだにあること、

 また①の文化の下限は立川ローム層のⅩ層にまでおよぶこと、

 その①の文化のはじめのころから縦長の剥片をつくる石刃技法が

 存在するとともに刃の一部を磨いた刃部磨研石器(斧形石器)なども

 出土することが明らかになった。

 このような諸遺跡の調査結果を総合して、

 最近では関東ローム層の後期旧石器時代の文化は、

 表4に示したように整理されることになった。

 月見野遺跡で代表されるような相模野台地の編年も

 基本的にはほぼこれと一致するようである。

 関東ローム層で明らかにされた旧石器文化の編年は、

 日本列島における旧石器文化の編年に一つの基準を与えたということができる。

 さきに述べた小林達雄氏らによる三期区分も、

 おおまかにいえば武蔵野台地の① ②をあわせてⅡ期とし、

 ③ ④ をⅢ期としたものとみることができる。

 ところで、ここで注目しなければならないのは、

 ①の時期になって突然、石刃技法が出現することである。

 石刃技法というのは、原石に適当な加工を施し、

 他の石器の材料になる石刃とよぶ縦長の剥片を

 連続的に原石からはぎとってゆく(剥離する)、

 大へんすぐれた石器の製作技術である。

 それ以前は、原石から不要な部分を打ち欠いて、

 原石そのものから石器(石核石器)をつくるか、

 原石から石片を一つ二つ打ち欠き、

 その剥片を加工して石器(剥片石器)をつくるかであった。

 ところが、この石刃技法を使うようになると、

 同じ規格の石刃がつぎつぎに多数つくれるようになり、

 その石刃(あるいは剥片)を材料にして、

 さらに各種の石器がつくられるようになった。

 なかでも石刃の鋭い縁辺を刃とし、他の辺に刃つぶしを施したナイフ形石器は、

 柄をつけて槍先に用いたり、ものを切り裂く切載具に用いられたようだが、

 それは旧石器時代のⅡ期の後半を特色づけるもっとも重要な用具であった。

 そのほか、石刃の長い側端に刃をつくり出した削器(サイドスクレーパー)、

 石刃の細長い先端に刃をつけた掻器(エンドスクレーパ)、

 石刃の角ばった一端から側縁にそって、細長い樋状の剥離を施した彫器、

 さらには石刃や剥片の片面あるいは両面を細かく調整剥離し、

 先端を尖らした尖頭器(ポイント)など、

 石刃技法の開発によって用途に応じたさまざまな石器が、

 石刃を素材にしてつくられるようになった。

 これらの石器の具体的なつくり方や石器の細かい分類などについては、

 この本は考古学の専門書ではないので、詳細な説明は省略する。

 くわしく知りたい方は、たとえば

 『日本の旧石器』立風書房、一九八〇年(赤沢威・小田静夫・山中一郎、)や

 『旧石器の知識』(芹沢長介、東京美術、一九八六年)、

 『旧石器人の生活と集団』(稲田孝司編、講談社、一九八八年)などを

 参照されるとよい。
 
 「写真13」ナイフ形石器

  東京都多摩ニュータウン遺跡出土。

  長さ42cm 。

  東京都埋蔵文化財センター/安藤洋児氏提供。

 「図4」野川遺跡の断面と立川ローム層

  野川遺跡は、関東地方の標式的な旧石器文化の遺跡である。

  AT火山灰という鍵層が発見され、ナイフ形石器を目安に、

 それ以前(Ⅴ層以下)と以後(Ⅳ、Ⅲ層以上)の3つの文化層が、はじめて区分された。

 (資料は小田静夫、1983 による)

 「図5」姶良Tn 火山灰の分布

  姶良カルデラから噴出したこの火山灰は、西日本から東北日本の一部にまで達した。

  この火山灰を手がかりにして、遺跡の年代を正確に知ることができるようになった。

  姶良カルデラのシラスの堆積

  シラス(入戸火砕流)は姶良Tn 火山灰と同時に噴出したもの。

  (町田洋、1983 による)

 「表4」関東口ーム層

  (武蔵野台地)の旧石器文化の編年(主として加藤晋平、1986 による)

 「写真14」石刃を素材とする石器

  東京都野川遺跡出土

  ナイフ形石器、尖頭器、削器、掻器、彫器、いずれも箱根産の黒曜石製。

  国際基督教大学考古学研究センター

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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2011年9月18日日曜日

日本旧石器時代の三期区分

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:39~40頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    2 氷河時代の世界と日本

 《日本旧石器時代の三期区分

 私はいま、野尻湖文化の年代を「後期旧石器時代の初期から中期」と表現した。

 これはその年代がちょうどヨーロッパやシべリア、中国などで用いられている

 「後期旧石器時代」の初、中期に当たると考えたからである(表1 先史時代年表参照)。

 そのこと自体は間違ってはいない。

 しかし、日本の考古学者たちは大へん慎重で、

 ヨーロッパやシべリアや中国などで用いられる旧石器時代の時代区分を、

 そのまま日本に適用してよいか否かについて結論を保留している人が多い。

 確かに問題はいろいろあるようで、

 むしろ日本の旧石器時代をⅠ期~Ⅲ期に区分しようとする

 国学院大学の小林達雄氏らの区分法が、

 現在では大方の支持を得ているようである。

 その区分の大要は次のようである。
 
 Ⅰ期は、三万年前ごろより以前の旧石器時代の古い時期をさす。

 さきに最古の狩人の遺跡として紹介した

 宮城県の座散乱木、馬場壇A、中峰Cなどの各遺跡の古層文化がⅠ期を代表するが、

 小林氏は「定形的」、つまり柄をつけて使う石器がみられないことを

 Ⅰ期の技術的特徴としている。

 現在までのところ、Ⅰ期に属する遺跡はきわめて少なく、

 この時期についての情報も乏しい。

 したがって、このⅠ 期の時代的上限も定められていない。

 そのためヨーロッパやシべリア、中国などの前期旧石器時代と

 中期旧石器時代のすべてをいまのところはⅠ期に含むことになるが、

 近い将来、この期の遺物や遺跡の発見がつづけば、

 Ⅰ期をさらに細区分する必要が出てくるだろう。

 Ⅱ期は、約三万年前から一万一二〇〇〇年前ごろまでをさす。

 最終氷期の後半、ヨーロッパの後期旧石器時代にほぼ当たる時期といえる。

 この時期には「石刃技法」という大へんすぐれた石器の製法が普及し、

 ナイフ形石器をはじめ、尖頭器(ポイント)、削器(サイドスクレーパ)、彫器など、

 「定形的な」石器が出現し、その種類が多様化した。

 この時期以後は遺跡の数も増加し、

 とくに武蔵野台地の立川ローム層とその中に含まれた遺跡や遺物の詳細な研究によって、

 Ⅱ期の文化やその編年はかなりよくわかってきた。

 そのくわしい紹介は次節で改めて行うことにしよう。

 Ⅲ期はナイフ形石器が消滅し、

 細石刃とよばれる新しいタイプの石器の登場によって特徴づけられる。

 細石刃というのは長さ三~四センチ、幅数ミリ以下の小型の細長い石器で、

 木や骨でつくった柄に細い溝を刻み、そこに並べてはめ込んで使ったものである。

 この細石刃は世界的にみて、とくに中石器時代を特色づける石器とされているが、

 日本列島では一万四〇〇〇年前~一万三〇〇〇年前ごろに急に出現し、

 その文化は一万二〇〇〇年ごろまでつづいた。

 この細石刃文化はシべリアのそれとよく類似し、

 おそらく日本列島の北の玄関口から渡来したと考えられている。

 しかも、細石刃文化の最終段階では土器が伴うようになり、

 縄文時代草創期の文化につながってゆく。

 そうした意味で細石刃文化は縄文文化の直接的な基礎を

 形づくった重要な文化だということができるのである。

 そのことについては、改めて、第4節でもう少しくわしく考えてみることにしよう。

 「写真11」 野尻湖の「月と星」

  野尻湖立ケ鼻遺跡第5 次調査(1973 年)の際に出土した

  「月」(ナウマンダウの牙、長さ101cm )と

  「星」(オオツノジカの掌状角、長さ58.4cm)とよばれる化石。

  野尻湖発掘調査団

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

 「写真12」野尻湖の発掘風景

  1962年、

  全国にひろく参加をよびかけてスタートした野尻湖の調査は、

  多くの人びとの手で、これまで11回にわたって調査が行われている。

  野尻湖発掘調査団

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2011年9月17日土曜日

氷河時代の動物と狩人たち

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:37~38頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    2 氷河時代の世界と日本

 《氷河時代の動物と狩人たち

 では、このような氷河時代の日本列島には、どのような動物が生息し、

 古代の狩人たちは、どのような動物を狩猟して生活していたのだろうか。

 第四紀の哺乳動物のくわしい研究を行っている

 京都大学名誉教授の亀井節夫氏によると、

 ヴユルム氷期には海面低下によって生じた陸橋を通って

 大陸から大量の動物群が移住してきたという。

 その一つはユーラシア北部の亜寒帯に分布する「マンモス動物群」で、

 マンモスゾウはシべリアからサハリンをへて北海道にまで南下し、

 ヘラジカ、ヒグマ、野牛(バイソン)などは本州にまで南下していた。

 他方、中国大陸北部に分布する草原性の「黄土動物群」も

 おそらく朝鮮半島を経由して西日本へ移住してきたという。

 それらはナウマンゾウ、オオツノジカ、原牛、ニホンムカシジカ、ニホンジカなどで

 特徴づけられる動物群である。

 おそらくこれらの動物群に伴ってヒトの移住もみられたと思われるが、

 いまのところ確たる証拠はない。

 このようにヴユルム氷期には北、南両系統の動物群が日本列島へ移住してきたとみられるが、

 これらの哺乳動物の化石が、

 石器や骨角器などとともに大量に出土した珍しい遺跡が二カ所知られている。

 岩手県南部の花泉遺跡と長野県北部の野尻湖立ケ鼻遺跡である。

 花泉遺跡では丘陵の砂質粘土層の中に五枚の泥炭層があり、

 その中から大量の獣骨化石が発見された。

 ハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、オオツノジカ、へラジカ、ナツメジカ、

 トクナガゾウ(ナウマンゾウ)、ノウサギの一種などである。

 オオツノジカや原牛などは黄土動物群に属し、

 へラジカや野牛などはマンモス動物群に属すことは前にも述べたが、

 花泉遺跡では中国北部から北上してきた動物群とシベリアから

 南下したものが共存していたことがわかる。

 また、花粉分析や植物遺体の研究から、約二万年前の花泉遺跡付近は、

 沼沢地の周辺にイラモミ、アカエゾマツ、トウヒ、チョウセンゴヨウなどを

 主とする亜寒帯針葉樹林がひろがり、年平均気温はいまより六~七度は低く、

 現在のサハリン南部と同じ気候だったとされている。

 この花泉遺跡でとくに注目すべきことは、シカの角や野牛の肋骨を割って研磨して、

 先を尖らした骨角器がいくつか出土したことである。

 また、敲石と思われる使用痕のある石器も発見されている。

 さらに発見された獣骨類は莫大な量であるのに対し、

 その種類は前にも述べた、わずか数種類にすぎない。

 なかでも野牛の骨がもっとも多く、原牛とオオツノジカがそれに次いでいる。

 しかも、これらの獣骨類はひろい範囲に散布していたのではなく、

 せいぜい一〇メートルほどの範囲からまとまって出土したという。

 このような事実から、花泉遺跡は、当時の狩人たちが、

 野牛をはじめ原牛やオオツノジカなどを狩猟し、その動物を解体した場所、

 つまりキル・サイトではないかといわれている。

 野牛の肋骨製の尖頭器(ポイント)も、

 おそらく解体の際の道具として用いたものであろう。

 同種のキル・サイトの遺跡はヨーロッパ、シべリア、中国北部などの各地
 
 いくつも発見されており、

 最終氷期にはマンモスやバイソンなど

 大型のムレ動物を狩猟する文化(ビッグゲーム・ハンターの文化)が、

 ユーラシア大陸の中北部で栄えていたことが知られている。

 花泉遺跡もその一つとして位置づけることができるようである。

 他方、野尻湖畔の立ケ鼻遺跡では、

 出土した獣骨の過半はナウマンゾウ(その大半が成獣)のものであり、

 オオツノジカがこれに次ぎ、他はきわめて少ない。

 したがって、そこはナウマンゾウのキル・サイトではないかと考えられている。

 その時代は野尻湖の湖底場胤物の分析などによって、

 ほぼ四万年前から二万四〇〇〇年前ごろと考えられている。

 花泉遺跡が約二万年前(ヴユルム氷期の最盛期)とされているのに対し、

 野尻湖遺跡はそれより少し前の亜間氷期と亜氷期の時期に当たるようである。


 ということは、後期旧石器時代の初期から中期にかけて、

 ナウマンゾウやオオツノジカをおもな獲物とする

 大型動物狩猟民の文化が野尻湖畔でも栄えていたことがわかるのである。

 「写真9」花泉遺跡出土の骨角器

  野牛の肋骨を斜めに折り、先端部分を磨いて尖らせている。

  獣の解体などに用いたらしし、(長さ178cln ) 。

  国立科学博物館

 「図3」日本列島にきた二つの動物群

  ヴュルム氷期には北からマンモス(亜寒帯)動物群が、

  南から黄土動物群がやって来た。

  影絵はへラジカ(北)とオオツノジカ(南)。

 「写真10」ハナイズミモリウシの復元骨格

  花泉遺跡でもっとも出土量の多かったのがハナイズミモリウシ。

  そこはキル・サィトかと考えられている。

  体長2.95m 、体高1.73m 。

  長谷川善和氏復元

  岩手県立博物館

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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2011年9月16日金曜日

最終氷期の海面低下

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:35~36頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    2 氷河時代の世界と日本

 《最終氷期の海面低下

 ところで、氷期の気候と関連してもう一つ注目すべき問題がある。

 それは氷期には海面が低下し、陸橋ができて、

 ある時期には日本列島は津軽海峡も宗谷海峡もなく、一つにつながっており、

 またアジア大陸とも直接つながっていた可能性があるということである。

 一般に、氷期には両極地方を中心に巨大な氷河が発達する。

 グリーンランドや南極大陸の大陸氷河(氷床)の中心部は、

 現在でも厚さ三〇〇〇メートル以上におよぶといわれており、

 ヴユルム氷期のスカンディナビアの氷床の中心は

 四〇〇〇メートルもの厚さを有していたと推定されている。

 このような巨大な氷河が陸地の三分の一ほどをおおっていたのだから、

 氷期には地球上の水分のかなりの量がそこに集中し、海水が減って海面が低下する。

 逆に、氷期が終わり、間氷期や後氷期に入ると、氷床の氷がとけ出して海水面が上がり、

 その結果、海岸線が陸地の内部へ入り込むようになる。

 この現象を「海進」(逆の現象は「海退」)とよぶが、

 後にその現象についてもふれることがあるので、記憶しておいていただきたい。

 ここで問題はヴユルム氷期の最盛期にどの程度の海面低下があったかである。

 湊正雄氏らは海底に残された谷地形の研究などから

 約一四〇メートルの海面低下があったとしている。

 しかし、海面低下はそれ臓どではなく一〇〇メートル前後だったとする人も少なくない。

 日本列島をとりまくおもな海峡の深さを考えると(表3)、その差は微妙で、

 湊氏らはヴユルム氷期の最盛期には朝鮮半島と陸橋で結ばれていたと考えている。

 これに対し、朝鮮海峡や津軽海峡に陸橋は存在しなかったとする説も少なくない。

 しかし、私は最終氷期に中国北部など、

 アジア大陸からの動物群の移動があったという事実からみて、

 ある時期に陸橋あるいは「氷の橋」で大陸と結び合わされていた可能性を考えている。

 この点に関係して、

 日本海海底の有孔虫や珪藻化石のくわしい研究を行った大場忠道氏らによると、

 日本海はかなり長い間、閉鎖的な状態だったと推定している。

 一万九〇〇〇年前ごろになると冷たい親潮津軽海峡から流入しはじめるが、

 南からの対馬海流の流入はそれよりおくれ、

 一万三〇〇〇年前ごろ以降になって日本海へ間欠的に流れ込むようになったという。

 朝鮮海峡は、やはり一時的に閉じられていた可能性が少なくないようである。

 「表3」現在の代表的な海峡深度>

 朝鮮海峡の最深部は、氷河期にはもう少し浅かったかもしれない。

 それが対馬海流が狭い海峡に流入するようになって侵食がすすみ、

 現在の水深になったとも考えられる。

 屋久島~奄美大島間 1000m

 朝鮮海峡       140m

 対馬海峡       120m       

 津軽海峡       140m

 宗谷海峡        60m

 間宮海峡        10m

 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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2011年9月15日木曜日

氷河時代とその環境

 出典:日本の歴史①日本史誕生・佐々木高明著・集英社
    日本史誕生:32~35頁
    第1章 日本列島の旧石器時代
    2 氷河時代の世界と日本

 《氷河時代とその環境

 さて、さきほど更新世は一般に氷河時代とよばれると述べたが、

 いったい氷河時代とはどのような時代だったのだろうか。

 私はかつてヒマラヤの山地で調査を行ったことがある。

 ネパール・ヒマラヤでは、海抜約五〇〇〇メートルをこえる高所の谷間には、

 いまも生きている氷河が谷を埋めている。

 氷河というのは、

 大量の万年雪が長い年月のうちに青氷とよばれる分厚く固い氷に変わり、

 それが一カ月に数センチないし数十センチほどずつ、ゆっくり流動するものである。

 その動きに伴って氷河は土地を削り、

 圏谷(カール)氷飾谷(U字谷)堆石(モレーン)など特有の地形をつくり出す。

 ところが、面白いことに、ネパール・ヒマラヤでは生きている氷河よりも

 高度にして一〇〇〇メートルほども低い海抜四〇〇〇メートル付近や、それ以下の地点にも、

 かつての氷河のあとを示すカールやモレーンがいくつも残っている。

 つまり、氷河時代にはいまよりも気候が寒冷でも

 日本アルプスや北海道の日高山脈にはカールのあとが残っており、

 かつてそこに氷河が存在したことがわかっている。

 さらに、北西ヨーロッパや北アメリカ中北部の平野部には数百キロ以上におよび、

 氷河が運んできたモレーンの列が現存し、

 かって大きな大陸氷河がヨーロッパや北アメリカの北部を

 おおっていたことが明らかになっている。

 現在、大陸氷河は南極とグリーンランドにだけ存在し、

 陸地の約一ゼロパーセントを占めるにすぎないが、

 氷河時代にはそれは陸地の約三〇パーセントを占めていたという。

 このように気候が寒冷化し、氷河が発達した時期を「氷期」とよぶが、

 同じ氷河時代でも氷期と氷期の間には気候が温暖化し、氷河が後退した時期があり、

 これを「間氷期」とよんでいる。

 一般にヨーロッパ・アルプスの氷河地形の研究によって、

 氷期には古い方からギュンツ、ミンデル、リス、ヴユルム(ウルム)の

 四つがあることは以前からよく知られていた。

 ところが、最近ではギュンツ氷期以前にもドナウ、ビーバーと

 名づけられる二つの氷期があったといわれている。

 しかし、古い氷期の堆積物や地形を区別する作業は非常にむずかしく、

 くわしいことがよくわかっているのは

 最後のヴユルム氷期(北アメリカではウィスコンシン氷期とよばれる)

 だけだということができる。

 ヴユルム氷期は約七万年前からはじまり、表2に示したように、

 四つの亜氷期があり、その間に三つの亜間氷期があった。

 約一万年前には最後の第四亜氷期(晩氷期)が終わり、

 それとともに気候が温暖化に向かって「後氷期」となり、現在に至っている。

 その間、気候がもっとも寒冷化したのは約二万年前から

 一万八〇〇〇年前ごろの時期(ヴユルム氷期最盛期)で、

 当時の日本列島の年平均気温は六度前後で、

 現在よりも七度ほども低かったといわれている。

 当時の東京がいまの札幌、鹿児島が青森の気候と

 ほぼ同じだったということになる。

 このように気候が異なると、当然のことながら、当時の日本列島の自然は、

 現在のそれとすっかり違った姿をしていたはずである。

 那須孝悌氏(大阪市立自然史博物館)は、

 乏しい資料をいろいろ組み合わせて

 ヴユルム氷期最盛期の日本列島の植生のくわしい復元を行っている(図2 )。

 それによると、東北地方から中部地方の大部分、

 あるいは近畿や中国、四国地方の山地には亜寒帯性の針葉樹林が分布し、

 関東、東海地方より西の西日本の低地は針葉樹の混淆した

 冷温帯落葉広葉樹林におおわれていた。

 また、東北地方北部から北海道の一部には亜寒帯針葉樹林がひろがるとともに、

 北海道の大部分は亜寒帯性の疎林におおわれていたという。

 ただし、北海道の北半分はツンドラにおおわれていたと考える人も多く、

 意見の一致はみていない。

 また現在、西日本の自然を特色づける照葉樹林(暖温帯常緑広葉樹林)は、

 当時は南九州と南四国の海岸部にわずかにみられるにすぎなかった。

 このような自然環境が氷河時代を生き抜いた

 旧石器時代人の生活の舞台になっていたわけである。

 最近、仙台市で発見された富沢遺跡は、こうした旧石器時代の自然と、

 そこで生活した人々の具体的な姿を示すよい例だということができる。

 同遺跡の旧石器時代(二万三〇〇〇年前ごろ)の文化層からは、

 樹木の大きな根や幹をはじめ、種果や葉や種子、

 さらにはシカのものと思われる糞など、

 当時の自然環境を示す多くの資料が出土した。

 そのころの森林はトウヒ属やマツ属(アカエゾマツが多い)などの針葉樹が多く、

 それにカバノキ属などの広葉樹が混じったもので、

 草原や湿地がその間にひろがっていたらしい。

 また、総計六八点の石器が発見されたが、その大半が集中している場所の中心に、

 半径五〇センチほどの炭化材の集中箇所がある。

 へラジカやオオツノジカが生息する亜寒帯針葉樹林の一角で、

 たき火をとり囲み、石器をつくり、

 狩りの獲物に舌つづみを打っていた当時の人たちの

 生活の様子が目に浮かぶようである。

 「写真8」氷河

 現在も地球上には氷河期をしのばせる氷河がいくつか残っている。

 ヒマラヤ山系にある世界第2の高峰カンチェンジュンガの山岳氷河

 氷河の両側にモレーンの堆積がみえる。

 中尾佐助氏提供。

 「表2」ヴユルム(ウルム)氷期(年代単位:千年)

 「図2」最終氷期最寒冷期の海岸線と植生(那須孝悌 1985による)

 氷河および高山の裸地,草地(ハイマッ帯を除く高山帯に相当する地域)

 亜寒帯性の疎林およびハイマツ群落亜寒帯針葉樹林(グイマツを伴う)

 亜寒帯性の針葉樹林(中部地方および近畿地方では一部に力ラマツを伴う)

 冷温帯針広混清林(ブナを伴う)

 冷温帯針広混ン肴林(ブナを伴わない)

 暖温帯常緑広葉樹林ぐ照葉樹林)

 最終氷期最寒冷期の海岸線


 《参考》
 【世界史年表1】宇宙誕生から紀元前まで

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